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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.242 古河公方公園

古河公方公園の秋
「古河公方公園」水彩F6



 古河をよく知ったのは10年ほど前だった。古河総合公園という公園を視察したいという家内の希望があり、スケッチの下見を兼ねて車で訪れた時だった。それまではほとんど気にとめることはなかった。その公園は広くて自然な感じで美しい公園だった。2003年、ユネスコとギリシャが主催する「文化景観の保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」を、日本で初めて受賞したという。
 メリナ・メルクーリと聞いて懐かしいメロディーを思い出した。高校生の頃に見た映画「日曜はダメよ」の主題歌だった。女優であった彼女はその後ギリシャの文化相になって国連にも関わっていたという。
 その公園の設計思想は素晴らしく、自然とその景観の美しさを重要視して設計されて、そこを訪れる市民との触れ合いも最大限自由に許されていた。茨城の小さな市の片隅にこんな素晴らしい公園があるのが驚きであった。
 ところが、驚きはそればかりではなかった。その公園の一角は古河公方の館跡とそれを取り囲む沼を取り込んで作られていた。
 足利幕府の関東支配のために鎌倉公方がおかれていて、それが戦乱の中で堀越公方と古河公方に分裂して長期間争っていた。その古河公方の館跡がこの公園にあったのだった。 
 それをきっかけに古河公方の歴史を知る事になった。なんとこの関東北東部から千葉一帯を4代に渡り100年近くも支配していたという。最後は後北条氏に飲み込まれて絶えてしまうが、豊臣秀吉がその遺族を喜連川氏として復活させて徳川時代を生き延びて現代まで続いているという。今は足利の姓を名乗っているらしい。
 その100年間は古河氏の居城古河城とその城下町は政治的にも文化的にも重要な都市であり、大いに賑わっていたという。古河あたりは地形的にもちょうど関東と奥州の結節点に位置しており、東南部は河川や湿地が入り組んだ地形で敵の侵入が難しい場所であり、さらに利根川、渡良瀬川、思川などがここで合流し物資運搬の要衝でもあった。そう考えれば、ここは地政学的にも要衝だったのだろう。
 どうも、私が学んでいた歴史が京都や大阪、あるいは戦国で名をなした北条や武田や徳川が中心で、この古河の歴史がきちんと書かれていなかったらしい。

 この11月になって木曜スケッチ会の下見に10年ぶりに古河市を訪れた。変わっていたのは、圏央道が全線開通して驚くほど早くなった事だった。そしてもう一つは公園の名前が古河公方公園に変わっていた。でも公園は昔と少しも変わらず自然で静かで美しい公園だった。その美しい公園の美しい紅葉を描いた。

 今回は時間があったので、古河城址の中にある歴史博物館を見学した。古河城址も綺麗に復元されてそこの歴史博物館は近代的な素敵な建物で、充実したレベルの高い展示がされていて、これも驚きだった。古河藩家老鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料の展示が行われていた。幕末の国宝級の貴重な古地図が多く展示されていた。伊能忠敬、間宮林蔵、渡辺崋山などと親交していた。渡辺崋山が描いた肖像画が展示されてあり、国宝に指定されていた。見た記憶のある絵であった。
 さて、絵を描き歴史探索をして残すところはうまいもの探しだった。城下町と思しき一角にいかにも古い格式のある蔵造りの建物があった。ここで名物の鮒の甘露煮を買った。実は古河に来たほんとうの目的はこれだった。自宅に持ち帰ってあっという間に食べてしまった。



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No.241 落人部落

神戸岩の秋
「神戸岩の秋」 水彩 P15


 先日、私の主催する木曜スケッチ会の15名ほどで、秋川の檜原村にある神戸岩を描きに行った。五日市駅から秋川渓谷を遡上して檜原村役場を過ぎるとそこで秋川は北秋川と南秋川に分流する。北秋川を遡ってさらにその支流の神戸川の最奥部にこの神戸岩が屹立している。100mもの高さの屏風のような岩が見上げるようにそびえていて、真ん中が割れてそこが小さな滝になって水が流れている。一説にはその割れた様子を天の岩戸に見立てて神戸岩と名付けられたという。また、その奥は大岳神社の神域でその入り口だから神戸岩という名がつけられたという説もある。
 紅葉を描きに来たのだけれど、あいにくと紅葉はまだ色づき始めたばかりだった。それでもその巨大な岩と木々が美しい。
 この谷の部落は武田の落人部落だと言われている。私が勤めていた会社の同僚の奥さんがここの出身だったという話を思い出した。

 ずいぶん前のことだ。この檜原村の南秋川の大山奥に車を走らせていると、小さな集落で信号が一つ見つかった。その信号標識に「人里」と描いてあった。その下にローマ字で「HENNBORI」とある。
「へんぼり?」
私は思わず声に出した。もう一度よく見たけれど確かに「へんぼり」だった。面白い地名を見つける趣味があるので、信号の下のローマ字を必ず読む。すると中にはおや!という面白いものがある。しかしこれは断然飛び抜けている。パソコンで難読地名というのを検索すると、なんと上位にランクされていた。難読地名は東北や北海道の地名が多いが、アイヌの地名に当て字したものがほとんど。千葉の呼塚は「よばすか」という。アイヌ由来の地名だという。これは「よぶつか」だからまだわかる気がする。
 しかし「へんぼり」には降参する。いろいろな説があるがよくわからないらしい。いろいろと自己流で推測をする。最後の「り」は里だからいいとして、前の「へんぼ」はおおよそ想像がつかない。おこりんぼ、とうせんぼ、ひとりぼっち、だいだらぼっち、あまえんぼ、きかんぼ、と人に「ぼ」をつけて呼ぶ言葉をいろいろ考えつくけれど、どうもしっくりこない。変な人が住んでいたので「へんぼ」なんでは? と変なこじつけをする。どうも「ぼ」は坊主の「ぼう」が訛ったものらしい。
 調べてみると、蒙古語で人のことを「ふん」と言いそれが「へん」になったという人もいる。「ぼり」は新羅語だという。九州の地名では原と書いて「ばる」と読む。田原坂は有名だ。これは朝鮮語の町、集落という意味だという。その「ばる」が訛って「ぼり」になったという。それにしても前半と後半が違う言語由来というのも納得がいかない。
 しかし、ここにはもう一つとびきりの難読地名がある。笛吹である。これを「うずしき」という。これもすごい。知らなければほとんどお手上げだ。どう見ても「ふえふき」「ふえぶき」あるいは「てきすい」である。山梨には笛吹川、武蔵嵐山の笛吹峠、岩手の遠野の笛吹峠が知られている。それにしても、これをどうして「うずしき」というのか?これも謎である。

 昔のことだ。北秋川の山奥の樋里「ひざと」という小さな部落で絵を描いていると、古い藁吹きの民家の脇で畑仕事をしていた老人が声をかけて来た。色々と昔話を聞かせてくれた。老人はその家で育ったという。今は誰も住んでいない空き家で、月に一度ほど畑の草取りにやってくるだけだという。八王子で住み込みのビルの管理人をしているという。
 「俺の子供の頃は親父が鉄砲でイノシシ狩りをして、お袋はこの小さな畑を作っていた。その頃は杣道しかなくてな、親父は月に一度、馬の背にイノシシやクマの毛皮を積んで八王子まで一泊二日で売りに行った。貧乏で貧乏でよう〜!この部落はな武田の落人部落だ。俺の子供の頃まで肩身の狭え思いで暮らしてたんだよ」
としみじみと話した。そして、古い壊れそうな家の中を見せてくれた。薄暗い中には囲炉裏らしきものがあり、埃だらけの農機具や桶や布団が散乱していた。外の馬小屋も見せてもらった。両方ともはるか大昔に作ったものらしい。その時に初めてここが武田の落人部落だったことを知った。

 400年前に武田一族は織田信長の軍勢に攻められて滅亡した。武田勝頼一族は勝沼の天目山麓で自害して果てた。その勝沼から十畳たる山また山を越えて、東に100キロほどのところにこの秋川檜原村がある。武田の家臣たちはこの険しい山を越えてここに来て住み着いたのだろう。それは老人の話を聞くとつい昨日のことのように思えた。
この檜原村には他にも落人部落がある。 
源頼朝の挙兵に参戦した三浦一族の和田義盛は、その功績で鎌倉幕府の重臣であったが、北条義時の策謀にかかって滅ぼされた。その一族がこの檜原村に逃れて住み着いたという和田という部落もある。
 平安時代にやはり源連(みなもとのつらぬ)という貴族が政争に敗れて、ここに住み着いたという伝説も残っている。
北秋川と南秋川を隔てる浅間尾根にその由来を示す地名があるらしい。

この檜原村は面白いところである。


 




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No.240 食いしん坊の歴史研究会

砧公園の銀杏

「砧公園の銀杏」 水彩F6



 安曇野を描き始めた頃に、有明山麓の中房温泉郷の有明山荘に初めて訪れた。初夏だった。
中房渓谷沿いの険しい山道を登って行くと、芽吹き始めた山麓に白い山辛夷が点々と咲いている。窓を開けると渓流の瀬音と爽やかな山の空気がなだれ込んでくる。高度を上げると、時折樹間に真っ白なアルプスの峰が見えてくる。
 有明荘は一軒宿で、高い峰々に囲まれて静かに佇んでいた。宿の入り口にお湯が引かれていて、そこに竹ザルと生卵が積んであった。側に置かれた箱に代金を入れて卵を温泉に漬ける。1時間ほどたつと温泉卵になる。翌日宿を出るときはそれを4〜5個ポケットに入れて、途中で食べながら絵を描いた。数年して宿は改築されて綺麗になったが、温泉卵の施設は無くなった。

 その頃から安曇野に来るときは必ずここに泊まることになった。一年で最も綺麗な5月の田植え頃と7月の末がほとんどであった。勤務していた会社の囲碁仲間と来たこともあった。兄弟会を企画してここへ案内をした。絵の教室の生徒を連れてきた。総計すると十五回以上来ているかもしれない。
 この数年事情があってご無沙汰をしていたが、この10月24日に久しぶりにここを訪れた。古代史研究会の月例会で、勝沼の釈迦堂遺跡博物館、八ヶ岳山麓の尖石考古館、安曇野の有明神社を訪ねた。宿は懐かしいこの有明荘まで足を伸ばした。
 好天に恵まれて、遡行する中房渓谷は見事な紅葉であった。翌朝宿の周辺を散策すると、朝日にあたって燃え上がるような色とりどりの紅葉は息を飲むように美しい。思い返すと、秋の紅葉の季節にここへ来るのは初めてであった。

 八ヶ岳山麓の蕎麦屋で更級の十割蕎麦と馬刺しを賞味して、この宿でイワナの塩焼きを食べ、翌日下に降りて穂高神社の近くでおやきを食べて山葵漬けを買った。そして帰路に佐久に立ち寄って念願の「鯉料理」を食べた。鯉のアライ、鯉こく、鯉のうま煮である。
綺麗で、美味しくて、面白い歴史研究会であった。

 はて、何を研究したかって?  え〜と、何だったか。 あそうだ! もう一つ忘れていた。 尖石縄文考古館の近くで山帽子の身を食べたんだ! 真っ赤な小さな実はうす甘い不思議な味だった。

「縄文に食みしか赤い山帽子 金色の草燃える丘にて」   虚空







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No.239 食いしん坊の話

銀杏燃える
「銀杏燃える」 水彩 F8



 10月の半ばから奥多摩や秩父は紅葉が始まる。紅葉は段々下に降りてきて狭山丘陵は12月中旬にその最盛期を迎える。その美しい紅葉を描きに行こう。
 大昔のスケッチを始めた頃から弁当は必ず自分で作る。大概はおにぎり三つとお茶だ。おにぎりは母譲りの小さい俵型で周り中を海苔で包む。具はおかかと昆布の佃煮、梅干しである。
贅沢な時は佃島の「丸久」の小海老、あさりの佃煮である。これは美味い。
時々はサンドイッチとコーヒーにする。定番のサンドイッチは、目玉焼きにブルドッグソースをかけて二枚の食パンに挟んむだけ。これはあっという間に出来るのがみそ。朝ごはんを炊いたりおにぎりを作るのが面倒だったから、絵を始めた大昔は大方このサンドイッチだった。
 その昔は山奥や田舎に行くと食べ物が手に入らなかったから、必ずこのサンドイッチ弁当を持って出かけた。
 これは前にも書いたかもしれないが、ある日弁当を持たずにスケッチに出かけた。大田舎の山裾を描いていたけれど、腹が空いて我慢できなくなった。絵と道具をそのままそこに置いて、車で食べ物屋を探して回った。いくら走っても見つからない。諦めかかった頃に、ぽつんと小さな古びたトタン屋根の店を見つけた。暗い店内に少しばかりの食料品と雑貨などを売っている。薄暗いケースの中に菓子パンが数個置いてあった。ちょっと躊躇したけれど、アンパンを2個とバヤリースオレンジを買った。これで絵を続けられると、元の場所に戻ってそのアンパンを食べると変な味がする。慌てて吐き出して、よく見るとカビが生えていた。
 その後、津々浦々にまでコンビニができて便利になった。もっぱらそこで買ったおにぎりが定番になった。あとはタマゴサンドだった。しかし、何年もそれを続けて気づいたのだけれど、手作りのものに比較すると後味が悪い。結局、また今は振り出しに戻って、もっぱら手作りの弁当になった。

 スケッチに出かけると、めづらしい食べ物を探して買って帰る。野草を摘むこともある。それが野外スケッチの大きな楽しみになっている。木曜スケッチ会では帰りに道の駅や農産物直売処に立ち寄る。バスの中ではもっぱらその食材の賑やかなお料理講習会になる。
 春の都幾川の土手沿いでスケッチをしていた時だった。ある会員の方が両手いっぱいに赤い色をしたイタドリの新芽を抱えている。
「とってもいいイタドリが見つかったわ。これは美味しいのよ!」
と興奮をしていた。私はその時初めてイタドリを知ったのだった。翌月のスケッチの時にそのイタドリの塩漬けをいただいて、調理方法を詳しく教えてもらった。塩抜きをしてあぶらげと一緒にごま油で炒める。
 これは生まれて初めての体験だった。不思議な食感で実に美味しかった。以後春先にスケッチに出かけて見つけると採って帰る。どこの道端でもよく見かける雑草だ。

 表題の絵は11月初旬に秩父の三峰の近くの山あいの燃立つような紅葉の中で描いた。この絵を見ると美味しい栃餅を思い出す。
三峰駅を降りて少し歩いた外れにトタン屋根の古びたお店があって、そこに「栃餅あります」と書いてあった。そこで買って食べた栃餅の美味しかったこと。それ以後は秋に行くとか必ずそこに買いに立ちよった。絵を描く前に買うことにしていた。帰りだと売り切れになる。
 その三峰の栃餅も十五年以上ご無沙汰している。まだ変わらずあの店で栃餅を作っているのだろうか?
11月になったら買いに行ってみよう。







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No.238 何も持たない豊かさ

青梅今井馬場
「青梅今井馬場」水彩F6


 表紙が黄ばんで角が擦り切れた角川文庫「現代詩人全集 第十巻」を又めくる。
懐かしい詩を探す。牟礼慶子の「素晴らしい海」が、黄ばんだ粗末な紙に小さい文字で印刷されていた。
全て暗唱していたのに、今は最初の一節も思い出さない
あの頃、この大きな海の中を
いつも溺れそうになりながら泳いでいた。




「すばらしい海」    牟礼慶子

それから山 それから海 それから畑
それから神話の中の松林の中をとおりぬけ
何という遥かな道程ののちにそれはあったろう
ゆく手はいちめんの青草と見せて
生き物のような道が傾斜しつくすと
不意に途方も無い大きさで端座した海

家一軒 もみの木一本所有しない
あんなにゆたかな空しさを
また明日の方まで運び続けるつもりだ
今ももの言わず
かもめの羽にかくれては
駄々っ子のゆうぐれを無心にあやしている

記憶の波を
一枚ずつ沖の方に押しやりながら
弓なりの浜を帰ってくる
そのあしもとの定まらない砂の下から
うしろざまにかけて行って
遠い波の下へ沈んでしまうすばやい海

忘れても他人のまねなどせず
どんなに徒労に見えても
自分の道だけを熱心に往復する
海には海の方法がある
楽しげにさざめき空に向かってはじけている海の
その本当の声を聞き分ける者はない

諦めるわけではないが
背中を向けて足早に去って行く
だが心だけはいつも海に寄り添って立っている
私にとって今 何がたいへんで何がやさしいのか
どこまでが正しくてどこからが悪いのか
しまいには誰が近くて誰が遠いのかさえわからなくなる

無理だろうか
あなたの胸からも
あどけない潮騒を聞きたいのだ
愚かしいことだろうか
私は死ぬまでに一度
そのひろいふところに溺れるほどに揺られてみたいのだ
心から望むのは
あなたの海が見かけよりずっと大きなうつわであり
あふれてもあふれても私を入れる深い盃であるように
そして私は
あなたの分を十年先まで浸している愛
愛よりももっとたしかにみちてくる潮であるように






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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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