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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.234 我が家の奇跡!

日本イチジク



 子供の頃にイチジクの木が内房の大貫の我が家の庭にあって、よく食べていた。その後東京を転々として所沢に居を構えて知ったのは、この辺りにあるのは西洋イチジクばかりであった。小さくて薄甘くて柔らかい。我が家もそれを庭に植えた。毎年たくさん実をつける。ジャムにしたり、蜂蜜煮にして食べている。

 ある時、石神井のおじさんの家に碁を打ちに行くと、庭先に日本イチジクがたくさんなっていた。大貫の家から分枝して植えたのだそうだ。毎年たくさんの実をつけているという。それを久しぶりに味わった。
 色鮮やかで酸味があって、食べるとタネが口の中で弾ける。柔らかくて薄甘い西洋イチジクと比較すると格段に美味しい。
早速そのイチジクを分枝してもらって、我が家の庭の片隅に植えた。

 それから40年の歳月が過ぎた。待てど暮らせどその日本イチジクはほとんど実をつけなかった。ものの本を読んで手入れをしたけれど、わずかに数個の実をつけただけだった。その間の裏の西洋イチジクは毎年食べきれないほどの実をつけていた。
 日本イチジクは日当たりを好むという。前の家が迫っていて午後は日陰になるからダメなのかもしれないと思ったが、おじさんの家もさほど日当たりの良い場所ではなかったような気がする。

去年は、とうとう痺れを切らして、
「もうダメだから、切ってしまおうか?」
と家内と庭先で話していた。
 
奇跡が起きた。
今年の初夏には小さな実がたくさんついた。どうせ途中で皆落ちてしまうだろうと、冷ややかに眺めていた。ところがその20個ほどの実は、この写真のような綺麗な実に熟したのだ。
格別、変わったことをしたわけでもない。40年間ほとんど実をつけなかったのにどうしたのだろう!
多分、庭先で「もう切ってしまおうか」という話を聞いて、慌てて実をつけたのだろう。それ以外に考えられない。
そうだ!
「美味しい実をありがとう! お前はよく頑張ったね、偉いね!」
と褒めてあげよう。
人間だって褒めるのが一番だ。
来年はもっとたくさん実をつけるだろう。







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No.234 日日平安

初秋の雑木林
「初秋の六道山公園」 水彩 F6



 山本周五郎が好きで、ほとんどの作品を読んだ。山本周五郎は好む人と嫌う人が比較的はっきりしている。私も先入観でずっと読まずにいた一人だった。きっかけは黒澤明監督の映画『椿三十郎』だった。
 浪人で滅法強い剣豪椿三十郎があるきっかけで、お家騒動の悪人退治の手助けをする。度胸と直感と神業のような剣術で悪人を退治する。最後に仲代達矢扮する敵の剣士と一対一の決闘をして、瞬時に相手を切り倒すシーンがリアルで当時話題になった映画である。
 映画館で見て、テレビとビデオで計三回は見ただろう。無論椿三十郎は三船敏郎、若侍に加山雄三、土屋嘉男、仲代達矢などの黒澤明好みの豪華メンバーの手に汗を握るドラマである。そしてこの原作が山本周五郎の『日日平安』であったのを字幕で知った。早速これを古本屋で買って読んだ。
 これがなんとも魅力的な短編だった。主人公はその日の食い扶持に困って、路傍で腹をすかしてフラフラしている。通りがかった若侍に恥を忍んで、一食ぶんの銭を無心する。その若侍はお家騒動に巻き込まれて江戸に急ぐ途中であった。貧乏侍に金を与えようとすると、財布を城におき忘れたことに気づく。それがきっかけでその貧乏侍がお家騒動の若侍に加勢することになる。剣は使えず、体力はなく優しく穏やかな乞食侍の知恵によって、見事にそのお家騒動を解決する話であった。ユーモラスでペーソスに富む魅力的な短編であった。私は原作の方が数段優れていると思った。『椿三十郎』はいわゆるハリウッドの活劇である。
 私ならば、主人公の乞食侍は寺尾聡にして原作に忠実にするだろう。黒澤監督のご子息が監督をした『雨上がる』を見たが、この方が『日日平安』のイメージに近い。心優しい剣士の悲哀を描いた物語で、これは良い作品だと思う。
 調べてみると、最初のシナリオは『日々平安』で原作に忠実で主人公は小林桂樹だったそうだ。それは東宝の要請でお蔵入りになって、三船敏郎演ずる『椿三十郎』になったという。

 話を元に戻せば、これがきっかけになって山本周五郎の作品を次々に読むことになった。多くの作品を読んだ。『青べか物語』『太陽のない街』はなん度も読んだ。社会の底辺の人々をこれほどリアルに描いた作品を他にあまり知らない。しかも暖かい眼差しがあって救いがある。『長い坂』『もみの木は残った』の長編は人が生きるという残酷な現実を目をそらさずに見つめて書いている。
 『虚空遍歴』は晩年の遺作だろうか、暗澹たる人生の索漠とした悲惨な末路を真正面から取り上げた重い作品であった。しかし無残な老境の姿を投影して、読み終えてため息を漏らさずにはいられない作品であった。
この率直さや真面目さが私は好きなのだ。




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No.233 故郷の海

多摩川縁の銀杏
「河川敷の銀杏」水彩 F6



 房総半島の富津岬の太平洋側にある大貫町が私の故郷である。高校2年までここで過ごした。15年ほどだけれど、幼少期の自分にとっては決定的な体験をここで味わって育ったのだと思う。この内房の海が私の故郷なのだ。
 その後東京に越して転々として、今は所沢の狭山丘陵に終の住処を構えている。ここは内陸部でそれなりに緑が多く住み良いところだけれど、時折海辺に絵を描きに出かけて潮の香を嗅ぐと、キラキラと輝く幼少期の思いが胸いっぱいに溢れて、ああ海辺に住みたいと必ず思う
 数キロに渡って続く広大な松原や砂山、その向こうに広がる青い海原、吹き渡る潮風、大空に高々と舞う鳶、そんな大空間の中で過ごすのがどんなに幸せなことだったか、それを知ったのは東京に越してからだった。
 
 大田区の交通の激しい道路沿いの木造アパートの二階が我が家だった。狭い我が家を一歩出ると、そこは密集した住宅街で、歩いても歩いてもどこにも身の置き所がなかった。喫茶店とパチンコ屋、食堂に入るお金はなかったし、そうしても大した慰めにはならなかった。ノイローゼになっていた。
 近くの銭湯に行く。風呂上がりの休憩所は広くて緑の少しある中庭に面していた。そこで涼んでいると気持ちが少し安らいだ。
 少し経ってから、1キロほど南に多摩川が流れていて、土手を超えると広い河川敷が広がっているのを知った。散歩をする人や野球をする人たちがいた。対岸の河原でトランペットの練習をしている。その頃流行ったニニ・ロッソの「夜空のトランペット」の練習をしていた。
ここで散歩をするようになって、私はようやく救われた。

 海が恋しくて一時期会社の同僚と海釣りによく出かけた。絵を描くようになって、最初にスケッチに出かけたのは海辺であった。

 そんな故郷の海が恋しくて書いたのが「座礁船」だった。幼少期のキラキラとした宝石のような思い出をここに書き留めたかった。








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No.232 狭山丘陵礼賛

秋の狭山公園
                  「秋の狭山公園」水彩 F6



 絵は随分描いていたのだけれど、ブログの更新は4ヶ月ぶりになる。
ようやくその気になって今キーを叩いている。
この狭山公園の絵は昨年の12月に描いたもの。私の優しい風景画教室の生徒を引率して一緒に描いた。
狭山丘陵は私の教室になっている。最も綺麗なのは秋と春だ。秋は特に12月の紅葉が美しい。春は雑木林の芽吹きの頃が素晴らしい。毎年飽きずに感嘆の声を上げる。
 この日は初冬らしい晴れ渡った日で、描いていると風が吹いて紅葉した木の葉がハラハラと舞い落ちてくる。与謝野晶子の歌を思い出す。

 金色の小さき鳥の形して いちょう散るなり 夕日の丘に    

 もうかれこれここに越してきて40年になる。狭山丘陵には野生動物が多い。
その間に出会った野生動物を懐かしく思い出す。狸、雉、コジュケイ、ハクビシン、野ウサギ、本土ぎつね、青鷺、鴨、アオバズク、フクロウ。
 林の中で一人で静かに描いていると、野ウサギやコジュケイがすぐ近くを歩いていくことがある。自然の中に暮らす喜びを感じさせる。

 一昔前の我が家の愛猫マーチャンは真っ白でスマートな体つきをした美女だった。気位が高く近所で出会って「マーチャン!」と呼んでも知らん顔をして行ってしまう。飼い猫と知られるのが嫌らしい。
 ある月夜の晩に、我が家の裏の暗い資材置き場を見ると、てっぺんに何か白いものがある。目をこらすとマーチャンがいた。何をしているのかと見ると、7〜8匹の猫があちこちに離れて蹲っている。ただじーっとしている。聞いたことのある猫の集会らしい。マーチャンはその集会を仕切っているボスだった。気位が高く気性がキツかった。

 又ある日の深夜に「ギャー、ギャー、バタバタバタ!」とすごい物音に驚いて部屋を飛び出して見ると、マーチャンが大きな鳥を咥えている。暴れて逃げるとそれをまた捕まえて咥える。取り上げて見ると大きなコジュケイで、まだ元気だった。怒っているマーチャンに構わず、それを裏の桑畑に逃がしにいった。
山鳩をよく取ってきて美味しそうに食べた。野性味のある素敵な猫だった。

 私の幼名は「マーチャン」で、今でも姉たちはそう呼ぶ。家内はそれを知っていて、猫にその名前をつけた。
「マーチャン!遅くまでどこをうろついてるの!」
家内が猫を叱ってそう言う度に、私がドギマギする。

そのマーチャンは庭のイチジクの木の根元に眠っている。我が家の伝説の素敵な猫だった。




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No.231 皇女和宮の位牌

多福寺山門
「多福寺山門」 水彩 F6



 加治将一著「幕末 戦慄の絆」に皇女和宮にまつわる秘密が解き明かされている。
その謎解きの発端は、彼女が明治十年に箱根湯本の環翆楼で亡くなった時に、近くの山奥の阿弥陀寺で仮通夜、密葬を行った時に作られた位牌であった。
 そこに書かれている戒名は「静寛院殿二品親王好誉和順貞恭大姉」だったという。この戒名がおかしいというのが発端になっている。その中の静寛院殿も、親王も男に用いるものだ。最後は大姉だからこれは正しい。この戒名から皇女和宮の死にまつわる手に汗を握る謎解きが始まる。
 これは加治将一ファンの私の一押しの推理小説である。ぜひ読んでみていただきたい。驚きの結末が待っている。

 友人二人で歴史研究会をやっている。六月の研究テーマはこの皇女和宮の謎だった。箱根湯本で一泊し阿弥陀寺を訪れて、この位牌を見るのが目的だった。
 湯元から、車では登れないかと思うほどの細くて急峻な山道を登る。エンジンが唸り急カーブで後ろに転がるのではないかと心配になるほどの道だった。ようやく着いた狭い砂利の駐車場に車を止めて、そこからまた急坂を登ると、目の前に小さな古びた山寺が見えてきた。周囲は山また山の深い森に囲まれていた。
 本堂の中に入れてもらって和宮の仏前に焼香をしてお参りをした。そこで住職の薩摩琵琶演奏で和宮の悲しい歌を聞かせていただいた。薩摩琵琶を聞くのは何十年ぶりだろう。
残念な事に位牌は下の位牌安置所に仕舞われていて、見ることができなかった。

 しかし皇女で将軍正室の和宮が何でこんなに人里離れた山奥の寂しい寺で、仮通夜と密葬をすることになったのか?
そして死後一週間も遺体がここに留め置かれたのか?しかも九月二日の残暑の厳しい頃だ。
住職に聞くと、
「葬儀が神式か仏式かでまとまらなかったのが原因で、毎日富士の高嶺から雪を運んで腐敗を防いでいた」
という。しかしこれは加治将一ならずともおかしいと思う。

この先、興味ある方は是非加治将一著「幕末 旋律の絆」を是非お読みください。手に汗を握る面白さです。





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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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