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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.201 塩沢堰の話

女神湖の遊歩道2
「女神湖の遊歩道」水彩 F6



 主催する木曜スケッチ会は毎月第3木曜日に、バスで日帰りスケッチ旅行をする。ただし7月だけは第四木曜日にしている。第三木曜日では梅雨が開けないからだ。
 毎年7月と8月は暑さを避けて高原に行く。しかし日帰りで行ける高原は行き尽くした感があって、今回は秋に一度行った蓼科高原の女神湖を選んだ。少し場所を変えて東岸の葦のある湖岸で描くことにした。そこへ行くコースも関越道、長野道、中部横断道を走って、北佐久の立科から女神湖を目指す初めてのコースにした。薄曇りで時折薄日が差す日和だった。

 女神湖の正式な名称は「赤沼温水溜池」で、蓼科山の北西4Kmの高原にある農業用人造湖だという。標高1.540m周囲1.5Km。赤沼温水溜池とは随分即物的な名前だ。昔はもしかするとここに温泉が湧いていたのかもしれない。一方、女神湖という名前も少女趣味で観光用のネーミングかと思ったが蓼科山の別名は古来より女神山(めのかみやま)と呼ばれていて、それが名前の由来らしい。
 江戸時代、蓼科山麓の水を集めて塩沢堰という用水が開発された。総延長55Kmの用水路で、これによって立科地方は豊かな穀倉地帯になった。この塩沢堰を開発したのは、武田家の家臣であった六川長三郎で、主家が滅んで徳川時代に帰農し、やがて私財を投じて塩沢堰を六年の歳月を費やして1646年に完成させたという。戦後その塩沢堰と赤沼温水溜池を改修工事をして、現在も北佐久平の農業の重要な用水路になっている。
 380年後の今も第12代の六川長三郎氏が塩沢堰の運用、管理、保守を担っているという。水源は蓼科山麓の中腹の二箇所で、これを合わせて総延長55キロの用水路を作って山麓の立科まで導水した。この用水沿いは今も快適な自然散策路になっている。全国疎水百選の一つに選ばれている。
 
 江戸時代は米が経済の中心だったので、水利工事や灌漑工事が最も重要なことだった。関東平野の幕府直轄の大規模な水路付け替え工事は夙に有名だった。荒川、利根川、隅田川、江戸川、渡良瀬川のほとんどの河川は大規模な改修が行われた。江戸湾に流れ込んでいた利根川は太平洋に流れるようになった。これらの大工事は幕府直轄の代官伊奈備前守の指揮で行われた。大名の領地内は無論藩の直轄工事で行われる。しかし、小規模な水路や灌漑工事はこの塩沢堰のように民間に委託される場合が多かったらしい。
 有名なものに箱根用水がある。小田原藩の裾野一帯は水利に恵まれず未開発地が多かった。その対策を思案していた名主の源之丞は江戸・浅草の商人友野与右衛門の支援を得て芦ノ湖の水をこの地に送る計画を立てた。幕府の許可を受けて1666年に着工して5年の歳月をかけて完成した。本来ならばこの用水を作った名主と友野与右衛門が水利権を得て、その灌漑した水田から一定の利用料を得て投資を回収をするのだが、この箱根用水の場合は複雑な幕府内の利権争いの中で翻弄されて、両名ともに暗殺されてしまったという。

 佐久平には他に同じような用水がいくつもある。五郎兵衛用水、御影用水、岩村田用水などだ。五郎兵衛用水を作った市川五郎兵衛はやはり武田の家臣だったという。

 涼しい女神湖沿いの遊歩道はホテル前から樹林の中に入って行く。その中に小さな滝があって綺麗な水が涼しげな音を立てて女神湖に落ちていた。この水が塩沢堰から注ぐ水であった。





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脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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