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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.173 びん沼憂愁

昼間の渡し「元荒川・びん沼」F6 水彩


 縄文時代は3度近く気温が高く、そのため海面が上昇して海岸線は今より遥か内陸にあった。貝塚が有るのでその海岸線は大凡判っている。関東平野南部は広大な湿地でその中を入間川、荒川、利根川、渡良瀬川、とその支流が洪水の度に流路を気ままに変えていた。霞ヶ浦や印旛沼辺りは大きな湖だった。その頃の房総半島はほとんど島のようであったらしい。この縄文の海岸線は平安時代に掛けて次第に後退して行ったのだが、依然として関東平野の南部は湿地と川に阻まれ人の往来が困難な所だった。
 家康関東入府の頃の江戸城は太田道灌が築城した荒れ果てた小城で、すぐ前は海岸であった。八重洲である。以後徳川幕府はこの関東平野の河川の流路を変え、何度も改修して水路を縦横に開削し、豊かな水田に変えた。それを指揮したのは関東郡代の伊奈備前守である。関東各地に残る備前堀や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも初代伊奈忠次の官位「備前守」に由来しているという。有力な直参旗本で入府以来関東の幕府直轄領80万石の差配を担っていた。

 しかし第7代関東郡代、伊奈半十郎忠順は役目半ばで切腹した。この経緯を小説にしたのが新田次郎の「怒る富士」だ。これを読んだのは10年以上前かもしれない。
 宝永の富士大噴火で東部の小田原一帯は火山灰に埋もれて大災害になった。忠順はこの復興を命じられて奮闘する。しかし幕府の救援金が十分に支給されず、洪水対策の為の工事や被災農民の飢餓救済が思うように進まず、私財までを用いて救済を図るが行き詰まる。何度も幕府に対して農民の苦境を訴えるが受け入れられず、思いあまって駿府城の幕府の備蓄米を越権行為に近い方法で運び出し、それを被災農民に分け与える。それを咎められて切腹する。
 幕府はこの富士噴火の救援金を全国の藩に割当て数百万両の資金を集めていたが、大部分を借金の返済と大奥の新築に費やし災害復旧に用いたのは大凡3割でしかなかったと言う。

 この小説は史実に基づいた興味深い小説であったが、その後の東関東大震災の政府の対応を見て思い出し、又丹念に読み返した。この江戸時代と同じことが今の日本で行われてる。いや、それ以上に酷いことが進んでいる。
 災害復旧臨時増税や義援金は、被災者個人にはなかなか届かず、道路や防潮堤や大型の復旧工事に大部分を費やしている。義援金の使途も不明瞭で、多くの資金を目的外に流用している。仮設住宅や賃貸住宅の被災者は、失った住宅のローンの返済猶予期間が切れて、その支払いを迫られている。福島の被災者も同じでもっと過酷な状況に置かれている。その上に熊本地震が起きた。又同じような事態が進行しているのが、垣間見える。

 阿部首相はこの在任中にしきりに外遊して、その都度海外に経済援助を約束している。総額70兆円と言う。国内の大型工事は震災前と何も変わらず進行している。リニアモータカー、新幹線、大型ダム、巨大防潮堤、防衛費、そしてオリンピックだ。これらの予算の一割もあれば被災者の住宅はすべて再建できるのではないか?
 おまけに、私たちの汗水たらして蓄えた年金や郵貯の金を、株式市場に投入して株を買い支えている。そして10兆円に近い損失を出したと言う。紙くず同然の米国債を数百兆円も購入して米国を支えている。
 これらを見ると江戸幕府の方がよっぽどましだと思う。少なくとも自国民を犠牲にして海外に巨額の金を貢ぐような売国的なことはしていない。

 江戸初期からの長年にわたる伊奈家の河川改修で荒川は水路を変えて、昔の元荒川は沼や池に変じて少ししか残っていない。びん沼はその昔の姿を残した数少ない場所だと言う。入府前の徳川家康に因んだ昼間の渡しがこの先に保存されている。

葦が茂り風に揺れて、倒木に数羽の川鵜が羽を休めている。
伊奈半十郎忠順の苦悩がいかばかりかと思うと胸苦しくなった。






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脇 昌彦

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