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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

N0.224 奥多摩万緑

奥多摩万緑
「奥多摩万緑」 水彩 P!5




 奥多摩街道を上流に向かっていくと、沢井を過ぎて少し上り坂の杉の林の中に入る。奥多摩渓谷は谷が深く展望の開ける場所少ない。
 一昨年の7月ごろだった。そこを走ると杉が一面に伐採されて、明るくなり奥多摩渓谷が一望だった。真下の渓谷と対岸の民家や青い山々が見渡せる。伐採された狭い空き地に車を止めてこの絵を描いた。炎天下で日陰はなく足元から熱気が湧いて来る。まだ桧や杉の芳香が漂っている。見渡す限り濃い緑で埋まっていた。
 難しいと覚悟して夢中で描いた。色が思うようにならず筆数が多くなり、絵は次第に暗くなった。諦めて1時間半ほどで筆を置いた。やはりいい絵ににはならなかった。夏の緑は難しい。がっかりして帰路に旨い蕎麦を食べて気を取り直して帰宅した。
 それでも真夏の緑が好きで、昔から何度も描いている。熱中症もを2度経験している。緑だらけの真夏の光景はたまらなく魅力的だ。

「万緑を描きそこねて蕎麦喰ふ」  虚空

出来損ないのこの絵が好きでここに載せた。






 
 
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No.223 僕のおじさん(5)

農道の秋
「農道の秋」 水彩 F6



 おじさんは囲碁が好きだった。私も子供の頃に父が教えてくれたので碁をやる。所沢に越して来てだいぶんたった頃、おじさんが仕事の帰りに我が家に立ち寄り、碁を打つた。それがきっかけで、土日には時々電話があって我が家で囲碁をした。そんなある金曜日に碁が打ちたくなって電話をした。
「この土日碁を打つ?」
「わしも打ちたいんじゃが、わざわざ昌彦の家に行くんじゃガソリンが勿体ない。立川のお風呂屋に仕事で行く時だけだ。わざにゃあ行かん。明日は暇じゃけえ昌彦が家に来るんなら打つぞ」
と言う。それで私がおじさんの家まで碁を打ちに出かけることになった。我が家は仕事のついでがある時だけだった。

 常日頃から商売はいいぞ!と言っていたおじさんは、二人の子供を結局商売人に仕立て上げた。上の女の子は薬学部を卒業して薬屋をしている。下の男の子は獣医学部で学んで動物病院の経営をしている。
 下の子は獣医学部を卒業してインターンが済むと間もなく、独立して動物病院を開業することになった。しかし東京でだから土地は高いし建物の費用もバカにならない。でもおじさんは息子になんとか開業をさせたいと思ったのだろう。考えた末に親戚に資金の援助を手紙で頼んだ。
私の父母がその手紙を読みながら話をしていた。
「頑張っているから偉いな。少し助けてあげにゃいかんな」
と投資信託を解約して援助したらしい。
 他の父の兄弟たちもそれぞれに援助をしたと言う。それで下の子はまだ若くして、独立して動物病院を経営することができた。
 おじさんの率直なお願いの手紙に、兄弟親族のかなりの人たちが協力しようと思ったのだった。

 我が家でのおじさんの評判はイマイチだった。特に私の母はあけすけなおじさんの言動や振る舞いを嫌っていた。姉ちゃんたちも広島帰省の列車事件のあおりで嫌がっていた。
でも私は昔からおじさんが好きだった。
正直で率直だった。自分を隠したり着飾ったりする様子は全くない。もちろん嘘はつかない。人に親切で、意地の悪いところが全くなかった。
「わしはべっぴんが好きじゃ」と公言して女学生だった叔母さんを嫁にして、生涯大事にしていた。そのおばさんもおっとりとして優しい素直な人だった。
 おじさんは10年ほど前に亡くなった。
5年ほど前に85歳を超えたおばさんと30年ぶりに私の個展会場で再会した。動物病院の従兄弟が車でおばさんを連れて来た。
 おばさんは上品で綺麗な老婦人になっていた。昔話に花が咲いて、おばさんが嫁に来るときのことを話してみた。するとその話はほとんど知らない様子だった。それに気づいて、私は遠慮してその話は少しだけにした。おばさんは楽しそうに
「ほっほっほ〜」、
と笑って聞いていた。
僕のおじさんは幸せな人だったなと思った。




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No.222 僕のおじさん(4)

葉桜の頃
「葉桜の頃」 水彩 F6



 一家で東京に越して私は大学を出て就職をした。24歳の時に結婚をした。おじさんに仲人を頼んだ。新居は西武線の鷺宮駅近くの木造アパートだった。上石神井は近くだから、おじさんとはよく顔を合わせていた。時々呼ばれて夕食をご馳走になったりしていた。
 前後の記憶がないけれど、何かの機会におじさんと鷺宮の駅で落ち合った。
「コーヒーをご馳走するけえ、喫茶店に行こうや」
と言う。駅の踏切のすぐ近くに時々行く喫茶店がある。そこへ入った。ウエイトレスが注文を取りに来た。ホットコーヒーを二つ注文をした。コーヒーが運ばれて来て、ウエイトレスがステンレスのミルクポットを手に
「ミルクを入れますか?」
と聞いた。僕は入れないと断った。おじさんはミルクを入れると言う。ウエイトレスが注ごうとすると
「自分でやるけえ、それを置いといてくれ」
と言う。ウエイトレスは怪訝な顔をしてそれを置いて帰った。
 おじさんはコーヒーに砂糖をスプーン3杯入れてかき回した。そしてポットからなみなみとミルクを注いだ。それをカップに口を寄せて「ズズズ〜」と音を立てて飲んだ。半分ほど飲むとまた砂糖を入れてミルクを注いで飲んだ。結局大きなミルクポットはすっかり空になった。
「わしはこうするのが好きなんじゃ。ミルクはタダじゃけえ、飲まにゃあ損じゃ」
とニコニコと満足そうな顔をした。
私はその喫茶店にはその後足が遠くなった。

 また別の時だったか、これも前後はよく記憶していない。暑い盛りにおじさんの軽自動車の助手席に乗った。青梅街道を走っていたのだろう。路側に車を止めて
「アイスクリームを二つ、あそこの店で買うてこい」とお金をくれた。交通の激しい道だったから、急いで買って車に帰った。おじさんはすぐに車を走らせ、
「先に食べええ、わしのはそのダッシュボードに置いといてくれ」
と言う。
「溶けちゃうよ」
「ええんじゃ」
と言う。私はアイスクリームを先に食べた。食べ終わる頃に
「昌彦、わしのを蓋を開けて木の匙でかき回して見てくれ」
と言った。だいぶん柔らかくなって来ている。その様子を運転しながら見て
「もう少しじゃな」
と言う。しばらくしてもう一度かき回した。ドロドロに溶けていた。するとおじさんは
「ちょうど美味そうになった」と道端に車を止めてそれを美味そうにズズズ〜と吸い込んだ。
「いや〜、うまいもんじゃ。こうするのが大好きじゃ!」
とニコニコしていた。

 おじさんに仲人をしてもらったので、盆暮れにお中元とお歳暮を欠かさず送っていた。おじさんのところにはコーヒーセットを送っていた。何種類かのブランド銘柄の豆を挽いたものとクリープなどがセットになっている。お中元を送ってしばらくしておじさんから電話がきた。
「昌彦、いつもお中元やお歳暮をありがとう。いいコーヒー豆を送ってもらっているんじゃけえ、わしは安いインスタントの方が好きなんじゃ。勿体ないけえ、同じ値段のインスタントコーヒーのセットに変えて欲しいんじゃ」
おじさんはあっけらかんとそう言う。私はおかしくなって思わず笑ってしまった。それを家内に言うとやっぱり笑っていた。
 次のお歳暮からはインスタントコーヒーのセットにしたけれど、安いからずいぶんたくさんになったと家内は言っていた。







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No.221 僕のおじさん(3)

間口漁港
「間口漁港」 水彩 F6



 どう言う経緯だったのか 女学生だった私の姉二人が、おじさんに連れられて広島の実家に行くことになったと言う。敗戦前なのかその後の話なのか定かではない。その頃千葉から広島までは1日がかりの大旅行で、東京駅から汽車に乗ったと言う。ボックス席に座って暫くして列車が出発した。川崎を過ぎる頃におじさんは席を立った。トイレだろうと思ったけれど、1時間しても戻ってこない。心配になって、下の姉が探しに行った。乗客でほぼ一杯の10両編成だから探すのは大変だった。すると随分離れた車両でやっとおじさんを見つけた。綺麗な女性の隣でなんだか楽しそうに話をしている。おじさんは下の姉を見ると
「ここにいるから安心をせい、そのうちに戻るけえ」
と言う。知り合いなんだと思い自分の席に戻った。おじさんはそれから数時間してようやく戻って来た。姉二人がおじさんを問い詰めると
「長い旅じゃけえ退屈じゃろ。どうせなら綺麗な人と話しながらいこうと思っての。それで一人旅の女の人を探したんじゃ」
とケロリと言う。そんな女性を探して「お一人ですか?」と聞いて回ったらしい。
二人の姉は家に帰ってから
「本当に嫌になっちゃった。恥ずかしい。もうおじさんとは絶対に出かけない!」とカンカンだった。

 おじさんは東京に出てから大変な思いをして悪戦苦闘していたが、やがて風呂屋への委託販売を思いついて苦労してなんとか生活ができるようになっていった。おばさんの保険の外交も力になったのだろう。おじさんが久しぶりに我が家に泊まりがけで来ることになった。その前日の夕方おじさんから電話があった。僕が出た。
「お土産を買うていこうと思うけん、何がいいか姉さんに聞いて見てくれ」
と言う。僕はお茶の間で近所の人と話をしている母にそれを伝えた。母は田舎では手に入らない鯨のベーコンがいいと言った。電話口に戻っておじさんにそれを言うと
「それはわしが嫌いじゃけえ、他のもんはないか?」
と言う。僕はまた母にそれを伝えた。母は渋々とまた何かを別のものを選んだ。するとおじさんはまた
「それもわしが嫌いじゃ」と言う。
また母にそれをいうと
「全く何を言ってるの、いつもこれなんだから。お土産いらないと言いなさい!」
と怒りだした。そばにいた姉ちゃんが
「おじさんは大福が大好きだから、そう言えば」
と言う。
母はもう勝手にしなさいとそっぽを向いていた。また電話口に戻って大福が良いってさ、と言うと
「そうか、それじゃあ美味い大福をぎょうさん買うていくけえ、姉さんにそう伝えてくれ」
とおじさんは上機嫌で電話を切った。


 私がおじさんの仲人で結婚して所沢に住み着いた頃、おじさんの母親が亡くなった。90歳近くだったと思う。家内にそれを言うとあなたのおばあちゃんでしょ!と言う。そう言われてよく考えて見ると、そうに違いなかった。でもその時まで全く気がついていなかった。おじさんの母親は後妻で、父とおじさんは腹違いの兄弟だったのだ。でも戸籍上は私のおばあちゃんに間違いはなかった。
 すぐに父から連絡があった。上京をするからおじさんの家まで案内をしてくれと言う。免許取り立ての危なっかしい運転で父をおじさんの家まで乗せて行った。おばあちゃんの葬儀の話だった。
おじさんはおばあちゃんを自分の車で焼き場に運んで、焼いてもらって自宅に遺骨を置いていた。勿体ないから葬儀はしないと言う。
父はおじさんに言った。
「母親の葬儀をやらないバカがどこにいる!それに広島の親戚にどう言い訳をするんじゃ!みんな呼んでちゃんとやらなにゃいかん!」
「兄さん、母さんはもう死んでしもうたけえ、お金使うて葬式するのは勿体ないけエ、わしはやりとうない」
「そんなわけに行くか!本家の親族に申し訳が立たん」
おじさんが葬儀をやらないと聞いて、父が説得に来たのだった。
「坊さんに葬儀費用と戒名代、ぎょうさん取られる。それに葬儀の費用だってバカにならん」
「そうは言っても、世の中はそうゆうもんじゃ。葬儀をしなけりゃいかん!」
「兄さん、人間は生きている時が一番大事じゃ。わしはずっと母を大事にしたと。死んでしもうてからじゃあ、何もならん」
そんな議論を延々としていた。私は内心おじさんの言うことの方が正しいと思って聞いていた。
最後に父が言った。
「わしが全部取り仕切ってやるけえ〜、葬儀をするぞ!」
「兄さんが費用を出して全部やってくれるんなら、わしはそれで良いけ」
と言うことになった。
 なぜかその葬儀には私は出席をした記憶がない。お骨を広島に運んで、本家の菩提寺で盛大にやったのだと思う。
 







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No.220 僕のおじさん(2)

初夏の高麗郷
「初夏の高麗郷」 水彩F6




 父は工場へ勤めに出ていた。錆びた中古の自転車に乗って毎日通勤していた。ペダルを漕ぐと錆びたチェーンがガラガラと音を立てる。夕方その音が聞こえてくると、しばらくして父が帰って来た。我が家の飼い猫のペコはその音が聞こえる遥か前に、お茶の間から逃げて姿を隠す。父は猫嫌いで、ペコがお茶の間のコタツで寝ていると蹴飛ばすからだ。
 
 父が帰ってくるとおじさんと二人で毎日頭を寄せ合って話をしていた。一家で東京に出て商売を始める相談だった。父は今復興の建築ブームだから、金物屋がいいんじゃないか、と勧めていた。住む家も探さなければダメだ。家賃の安い家をまず探さなければいけない。商売を始めるには元手がいる。お店を出すお金は望むべくもない。まったく知らない初めての土地で何の商売をしようか?毎日毎日裸電球の下で相談をしていた。
 どういう経緯だったのか、おじさん一家は東京の上石神井の公営の住宅に入ることができた。そこでメリヤスの下着の卸売りを始めた。洋服店に売るのだ。大阪で反物の商売をしていたので、馴染みのない金物ではなくメリヤスの下着にしたのだろう。
 前後に大きな箱のついた荷物用の自転車を買った。それを漕いで上石神井から両国のメリヤス工場に仕入れに行って、その箱に山盛りの下着を積んで、洋品店を一軒一軒訪ねて売り歩いたという。
「いや〜。どの店も卸しが決まっておるけえ、100軒回ってもまったくダメじゃ!」
とこぼしていた。でもおじちゃんはそれで諦めるわけにはいかなかった。大事なおばさんとお母さんと子供二人を養わなければならない。

 我が家は父の工場が忙しくなって、なんとか安定していた。下のねえちゃんは東京の親戚の会社に勤めていた。ある日父はそのねえちゃんに電話をして、上石神井の様子を見てこいと頼んだ。しばらくして、下のねえちゃんが帰って報告をしに来た。
「大変よ!夕飯のおかずは刻んだキャベツをテーブルの大皿に盛って、それにブルドッグソースをかけてみんなで食べていたわ。あとは豆腐の味噌汁だけ!」
 それを聞いて、僕もびっくりしたけれど、父と母はひどく驚いていた。おじさんの商売がまったくうまくいかないらしい。慌てて母と何やら相談をしていたから、きっとお金を送ってあげたのだろう。

 おばさんは生命保険の外交を始めた。我が家に勧誘に来たこともあった。おばさんは美人で優しい人だったから、だいぶ成績も良いらしく少しは楽になっらしい。
 でもそれだけではダメだ。おじさんは必死だった。考えに考えてある妙案をようやく考え出した。銭湯でメリヤスの下着を委託販売をしてもらおうと考えついたのだった。ランニング、パンツ、ステテコ、ブラジャーをケースに入れて風呂屋に委託して売ってもらう。ひと月ごとに精算をする。売り上げの何割かは風呂屋の儲けになる。おじさん一家も毎日銭湯に通っているから、そこで汚れた下着を見て買い換えたくなることもあったのだろう。これはきっと行けるとおじさんは興奮をした。その夜は眠れなかったという。

 色々と準備をして、おじさんは自転車で風呂屋を回り始めた。いく先々で断られてなかなか入れてもらえない。でも諦めるわけにはいかない。練馬区はもとより杉並、阿佐ヶ谷の銭湯をくまなく訪ねて行った。100軒も訪ねてた頃にようやく一軒だけやって見ても良いというところがあった。おじさんは嬉しかった。
 おじさんの予想は当っていた。そこでかなりの売り上げがあった。単価が安いからさほどの金額ではないけれど、コンスタントに売れた。風呂屋も手間がかからずに売り上げになるから喜んでいた。銭湯の主人は新潟県人会の人が多くその伝手をたどって、次々に下着を入れてくれる風呂屋が増えて行った。おじさんはこれは行けると張り切りだした。毎月何軒もの風呂屋を回って清算をしなければならない。さすがに自転車では回りきれなくなって、ダイハツミゼットを購入し、それに乗って東京中の銭湯を回り始めた。
 その成功がきっかけになって、おじさんの商売は安定していった。そしてトヨタのバンに買い換えた。私が大学を出て田無の会社に勤めだした頃に、車でよく会社に訪ねて来た。
「わしは東京中に200軒の店を持っていてな、月に一回精算に回るだけじゃ!」
と自慢をしていた。
「サラリーマンは退屈じゃろ。商売はええぞ〜!」
と言う。そして、いつもパンツやランニングを沢山くれた。だからその頃我が家では下着を買ったことがなかった。








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No.219 僕のおじさん(1)

初秋の堤防
「初秋の堤防」 水彩 F6


 5月の日曜日に、おじさんから電報が届いた。父が庭先で電報を受け取ると、それを読んで驚いた顔で母を呼んだ。
「幹枝!大変だ。博三が破産してここへ来るぞ。これを読め!」
僕も覗き込んだ。
「ショウバイシッパイシタ、アスイッカデイク、ヨロシクタノム」
母も難しい顔をして、父親を睨んでいる。
そうしているうちに、門の前に見慣れない大きなトラックが止まった。運転手が降りて来て
「脇さんのお宅ですか?脇博三さんからここへ届けるようにと言われてます」
という。父と母は荷台いっぱいに荷物を見て目を白黒させている。うろうろする父母に運転手は言った。
「大阪にこれから帰るのですぐに降ろしてください」
覚悟をした父は、家族全員を呼んで
「みんなで荷物を降ろして、とにかく庭に置いてくれ!」
と指示した。
 にいちゃんねえちゃん、みんな総動員で庭木の間に食器戸棚や箪笥、本箱や布団をところ構わず降ろした。トラックはすぐに帰って行った。父母と僕たちはそれを見て呆然としていた。母がヒステリーを起こしていた。

 翌日の昼ごろの列車でおじさん一家がやって来た。おじさんと叔母さん、下の僕たちと同い年の従兄弟の兄弟とおばあちゃんの5人家族だった。我が家は6人兄弟だから8人家族だった。結局全部で13人が一緒に暮らすことになった。
8畳一間、6畳二間、三畳が一間だった。それに大きなテーブルを置いた台所があった。幸いに広い一間廊下が鉤の手に取り囲んでいたので、なんとかみんなで寝ることができた。
 食事は二回に分けて食べた。テーブルの真ん中に大きな皿や飯台を置いて、そこにおかずがいっぱいに盛られていて、箸と飯茶碗を持ってみんなでそれを食べた。従兄弟と僕たちは一緒に食べる。するとおじさんが来て
「なくならんうちに、早ようよけい食えよ!」と従兄弟達にエールを送る。だから僕らも負けじと急いで食った。おかずはあっという間になくなった。するとしょうがないので、ご飯に醤油をかけて食べた。ブルドッグソースの時もあった。

 夜になるとおじさんと父が裸電球の下で話をしていた。ぎゅう詰めだから内緒話はできない。大阪で反物の商売をしていたおじさんは、随分と手広くやっていたという。でも叔母さんが結核になってしまったので、輸入品で高価だったストレプトマイシンを金に糸目をつけずに買ったという。そして大事なおばさんを病院の個室に入れていた。おばさんは当時は見たこともない素敵なパジャマを着ていたという。
 そのうちに闇景気が治まって不景気になり、とうとうおじさんは行き詰まってしまった。苦し紛れに方々からたくさんの反物を仕入れて、支払いをせずにそれを鉄道貨物で持ち逃げしようとした。いわば取り込み詐欺である。それがバレて、債権者に取り押さえられて袋叩きにされ反物も全て取り戻されたという。だから目の周りに黒い痣があった。
私の家にいた時もおじさんはおばさんをすごく大事にしていた。

おばさんとおじさんの結婚するときの話を父から聞いた。
父は作り酒屋の次男坊でおじさんは三男だった。長男が早く亡くなったので、父が番頭と一緒に酒屋を切り盛りしていた。その父のところにおじさんがきて結婚をしたいと言う。相手は誰かと聞くと高等女学校をもうすぐ卒業する元校長の娘だという。それから色々と聞くと
「わしはべっぴんが好きじゃけえ、学校の門の前に立って探していたんじゃ。すごくかわいい娘が見つかったけ、後をつけて知ったんじゃ」
父はその話をするときには
「まったく博三はバカじゃけえ〜!」
と吐き捨てるようにいつも言っていた。
 でも熱心なおじさんの願いに負けて、父は番頭を連れてその元校長の家をたづねて何度も頼み込んだ。しかしまだ女学生だし父親も当然ながらうんとは言わない。諦めろと言い聞かせてもおじさんはダメだった。結局高価な贈り物と大枚の結納金を持参して、とうとう結婚の許しを得たという。
「結婚式の日に父親が辺り構わず泣いてな!あれは辛かったよ」
と父は言っていた。

 そんな経緯だから、おじさんは叔母さんを生涯大事にしていた。おばさんの両親も親戚も原爆で皆なくなって、一人ぼっちになったこともあるのだろう。






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No.218 ワサビ談話

奥多摩渓谷
「奥多摩渓谷」 水彩 P15



 大昔にまだ小学校の息子二人を連れて、雲取山登山をした。車でお祭りまで行きそこから深い渓谷沿いの山道を遡って、途中のわずかな空き地に車を止めてそこから三条小屋に登った。そこに一泊して翌日雲取山の頂上を目指した。苦しい登りに下の子が音を上げてしまったけれど、私もそれを助ける余力がなかった。最後の急峻な登りで立ち往生をしていると、逞しい若い登山者が下の子供を負ぶってくれた。それでようやく登頂が出来たのだった。
 疲れた足を引きずって下山して、途中に置いた車で渓谷を伝って下に降りて行った。向こうから軽トラックが登ってきた。道が狭くすれ違いに難儀をした。車を降りて軽トラックの人と話をした。その谷に自生している野生のワサビを採取しているという。荷台に丸い葉をつけたワサビが無造作に投げ入れてある。別れ際にその数本を分けてくれた。帰宅して刺身を買って早速それを食べてみると、それほど辛くはなく香りが高く、甘みがあった。

 絵を描き始めて安曇野に行くようになって、名物のワサビやワサビ漬けを買ってきて食べる。だんだん舌が肥えて選り好みをするようになった。行くたびに店を変えて美味いものを探した。
 その後奥多摩にもワサビ専門店を見つけた。そこのワサビとワサビ漬けを買って食べた。その時ワサビは奥多摩の方が美味しいと思った。数十年前に食べた自生ワサビを思い出した。でもこれは栽培したワサビだ。
安曇野の大規模なワサビ田と違って、奥多摩は奥深い森に囲まれ小規模なワサビ田だった。それが味を良くしているのだろう。その後奥多摩に来る時は必ずワサビを買って帰るようになった。

 随分と以前に私の勤務している会社にインド人が数人実習に来ていた。その彼らの世話をしている人に聞いた話。
ある時そのインド人達から夕食に招待された。故郷から送って来た本場のカレーをご馳走するという。そのカレーはものすごく辛くて、口中が火傷をしたようにヒリヒリとして本当に閉口したという。
 別の日に彼らを招待してご馳走をすることにした。日本でしか味わえないものが良いだろうと、寿司屋に行った。ところがワサビ入りの握りを一口食べた途端に彼らは飛び上がって涙を流し、寿司を吐き出したという。仕方なく箸で丁寧に除いたけれど、そのわずかに残ったワサビもダメだったという。あの猛烈に辛いカレーを食べるのに、ワサビは全くダメらしい。
 ワサビの辛さは揮発性で舌先から一瞬鼻に抜ける。そして涙が出て来る。カレーの辛さとは全然違う。彼らが全く食べつけない辛さだったのだろう。

 思えばワサビは不思議な食べ物だ。強力な殺菌作用があるという。それで刺身や寿司には欠かせないものだという。








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No.217 炎暑礼賛

新河岸川
「新河岸川・炎暑」 水彩 F6



 暑い夏が好きだ。

海辺で育った子供の頃の記憶が体に焼き付いている。
家で海水パンツに履き替え手拭いを持って、裸足で海に行く。田んぼの畦道をすぎて林を抜けると、大きな砂丘がある。照りつける日差しで坊主頭がジリジリと熱い。砂が焼けている。「あっちちー!」と声をあげて、草を選んで踏み、そこから電柱の影に走り込み、また松の影まで走っていく。松林の中を抜けると海までの焼けた砂地がある。もう一度「うわおー!」と一気に駆け出して海に飛び込む。その時の爽快さ。
泳ぎ疲れて体が冷えると、暑い砂の上で甲羅干しをする。空は底抜けに青い。

 今も暑い夏が好きだ。

 子供や孫たちと川遊びや海水浴をする。。好物のスイカやネクタリンを食べ、ヒマワリや鬼ヤンマやを眺めると不思議に幸福だった。夏には楽しい思い出が詰まっている。生きるということは楽しむことなのだ。
 毎年真夏に伊那谷や安曇野で絵を描く。炎天の風景をたくさん描いた。熱中症を2度経験した。少し暑いと思いながら描き終えて、宿に入ってから頭痛と吐き気がやってきた。翌朝まで悩まされた。

でも暑い夏がいい。

今も西日の当たる二階の部屋で冷房なしで過ごしている。窓を開け放して蚊帳を釣って寝る。
生命力あふれた緑だらけの暑い夏が好きだ。

 冒頭の絵は炎天下の上福岡の橋の上から描いた。








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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
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