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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.216 笛吹峠

春の笛吹き峠
「春の笛吹峠」 水彩 P15



 春先の雑木林は微妙な複雑で柔らかい色をしていて、なんとも言えず魅力的だ。毎年この頃に必ず描いている。主に狭山丘陵だけれど、都幾川の武蔵嵐山付近に出かけて描くことが多い。
 この絵を描いたのは武蔵嵐山だった。場所を探して山里を車で走っていた。美しい新緑の雑木林を走っていると休憩所があった。道標には「笛吹峠」とある。峠と言われると峠なのかというほどのなだらかな山道だ。素敵な名前だなと思った。この名前で思い出したのは甲府の笛吹川だったけれど、調べてみると民話で知られた岩手の遠野近くにもに同じ名前の笛吹峠があった。
 そこを南に少し下ると明るいひらけた畑と用水地があった。そこで絵を描くことにした。向こうの芽吹き色の雑木林の中には、山桜が混じっている。
 この峠は古来から名の知られたところだった。上州、信州、越後に向かう鎌倉街道で南北朝時代に笛吹峠の戦いがあったところだという。
 新田義貞の三男新田義宗が南朝の宗良親王とともに武蔵野の小手指ヶ原で北朝の足利尊氏の軍勢と戦ったが、最終的にこの峠で敗れたという。義宗は越後国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していったと書かれている。
 激戦だったか、道路工事をした際に人骨が大量に出土した。その戦いの折に月明かりに誘われて宗良親王が笛を吹いたことから笛吹峠と命名されたという。

 私の家のすぐ近くの川沿いに、梅の古木がある。「箙の梅」という。そこに所沢市が建てた看板がある。武蔵野合戦の折にこの小手指ヶ原で何度も合戦をした。その時に北朝方の足利の若武者が、箙に入れていた梅の小枝をここに挿して、それがここに根付いたと太平記に書かれているという。今はもうないここの旧地名は所沢市三ヶ島大字梅林だった。その時に戦ったのが南朝方の新田義宗と宗良親王だったのだ。ここから笛吹き峠に退却して、そこで最後の決戦をして敗れたらしい。

 雑木林の芽吹きの絵は毎年何度も描いているけれど、良い絵はほとんど描けない。その色が微妙で精妙で私の手に負えない。でもこの美しさをまた来年も描きに行こうと思う。笛吹峠に行ってみよう。




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No.215 思い返せば

冬の名栗川
「冬の名栗川」 水彩 F6



 故郷の大貫幼稚園を中退した話はこの前した。その話を書いてから、何やら色々なことに思いを巡らすことになった。房州の小さな田舎町の幼稚園で、キリスト生誕祭の劇をやらされたのは思い返せば不思議なことだった。
 その頃のお祭りといえば何と言っても山間にあった吾妻神社の例大祭だった。近郷近在の農耕馬を飾り立てて神社でお祓いして御神酒を飲ませる。さらしを巻いた若者がそれにぶら下がって海まで駆け抜ける。蹄の音としゃんしゃんとすず音を響かせて数十頭の馬が走り抜ける。時折暴れて群衆の中に突っ込む。勇壮なお祭りだった。農家ではその日は年に一度の大ご馳走を作って祝う。父がその祭りの日に奥の農家に招かれていくことになった。そのお供でご馳走にありついた。大きなお膳いっぱいに色とりどりの山海のご馳走が並べてあった。我が家では見たこともないご馳走だった。
 また海岸沿いにある真福寺の例大祭も盛大だった。近郷近在の人で賑わった。空海の御影供養だ。露天が数百件も並んで門前までぎっしりと続いていた。なけなしの小遣いを握りしめて、焼きそばやカルメラを食べに行った。
 4月8日には花祭りだった。お寺の境内にみんなで集まる。するとお坊さんが説教をしてくれる。
「みんなよく聞きなさい。今日はお釈迦様が生まれためでたい日ですよ。お釈迦様はね〜人の幸せを願って、いろんなことを教えてくださいました」
それが終わると、甘茶を仏像に柄杓でかける。その甘茶とお菓子をみんなに配ってくれた。甘茶は薄甘い味がした。
 そんな田舎だったから、その頃は誰もクリスマスもキリストも知らなかっただろう。
もひとつ思い出した。海岸の松林の中に粗末な木造の教会が突然出来た。日曜日の朝になるとイザリの人が木の車の音を響かせながら我が家の前を通る。その教会に通っていた。お菓子や飴がもらえると聞いて僕らも行った。オルガンを響かせて賛美歌を歌っていた。
 敗戦後5年ほど立った頃だった。幼稚園の先生ですらクリスマスなんて知らなかっただろう。多分占領軍の指導でその頃日本中の津々浦々でそんな光景があったのだろうと思った。
 小学校の6年の時に、突然「生徒会」ができた。生徒会長を選挙で決めるという。担任の先生がいきなり3人の生徒を指名して立候補をしなさいという。その一人に私が入っていた。嫌だと言ったけれど安井先生という男の担任は許してくれなかった。
 講堂で演説会をやらされた。演説は先生が書いたメモを読んだだけだった。運が良かったのか普段イタズラばかりしていたのが良かったのか、私は落選した。プライドが傷ついて、その上大人の偽善が嫌な感じだった。民主的、自主的にという建前だったけれど、生徒会も裏で先生が指導してその通りにやっているだけだった。今思えば、これも占領軍の指導だったのだろう。

 敗戦時にマッカーサーは天皇をキリスト教徒に改宗して、国語を英語にしようとしていた。その時の様子は「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著 に詳しく書かれている。かろうじてそれは免れたけれど、その後日本中にクリスマスやアメリカ映画が溢れてきたのだった。私も小学校の時に姉の婿さんにクリスマスプレゼントをもらった記憶がある。復活祭の日に近所の米兵の家に行って、綺麗に絵の具で絵が描かれたゆで卵を庭の中で探した。それが何の行事だったか全く知らなかった。外来のものは何もかも良い素敵なものということになった。日本古来の風習はどんどん廃れて行った。今はもう花祭りを知っている子供はいないだろう。

 今もその状況は変わらず、むしろ酷くなっている。ハロウインの気色の悪い馬鹿騒ぎはどうだろう。クリスマスもバレンタインもそうだ。売らんかなの卑しい商業主義でしかない。日本は民主主義国家の体裁はしているけれど、裏でアメリカが全てを操っている。あの頃の生徒会そのもののようだ。

 日本人が真に解放されて、本当に自立する日はいつ来るのだろう。花祭りは復活するのだろうか。








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No.214 「風景スケッチ展」開催のお知らせ

日和田山麓  「日和田山麓」水彩 P15




第6回「風景スケッチ展」

<会場> 小手指市民ギャラリー「エバー」
        西武池袋線 小手指駅北口 徒歩1分 スカイタワー2F

<会期> 1月9日(火)〜1月15日(月)

<時間> 午前10時〜午後5時
        (但し 初日は午前12時〜)


 私が主催している「やさしい風景スケッチ教室」と「木曜スケッチ会」の有志との合同の展覧会です。
風景の中で描く臨場感のある新鮮な作品を54点展示いたします。気軽にご覧ください。










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No.213 幼稚園中退

紅葉の名栗川
「紅葉の名栗川」水彩 F6



 故郷の内房の大貫町に幼稚園ができた。突然母ちゃんが僕をそこへ入れると言う。母は真剣だった。1キロほど先の幼稚園まで、嫌がって抵抗する僕の手を握りしめて、町の通りを引きずって行った。木造の古びた建物は鉄道の土手下にあった。
 海や川で気ままに遊び呆けていたから、幼稚園の女の先生が手取り足取り面倒を見てくれるのが毎日鬱陶しかった。半年ほど我慢をして通っていた。
 ある日、クリスマスで演じるキリスト生誕の踊りと劇の練習をさせられた。紙で作った帽子や服を着せられて、「キラキラ星が〜」と歌いながら踊らされた。その踊りを無理強いされて僕は怒っていた。自尊心が傷ついた。

「クリスマスってなんだ? キリストなんて知らねえぞ。なんでそんなことを無理強いするんだ。馬鹿馬鹿しい!」
 
 とうとう僕は先生の目を盗んで脱走した。土手の草むらをよじ登って線路の上を走って逃げた。広い空は青く澄み渡って、雲が浮かんでいた。心地よい海風が吹いていた。嬉しかった。
家に帰ると幼稚園から連絡が入って、母ちゃんにひどく叱られた。でも僕は幼稚園には絶対に行かないと決心していた。
 翌日の朝、母ちゃんはすごい顔で僕の手を握って引きずって行った。駅前の通りで僕は猛烈に暴れて叫んでいた。延々そうやって抵抗した。とうとう母ちゃんは諦めて僕を投げ出した。
それから小学校に入学するまで、僕はまた海や山で自由に遊びまわっていた。

 あれから60数年後の私は、四人の孫たちとよく遊んだ。お気に入りは川遊びや「水雷母艦」と言う鬼ごっこのような遊びだ。相撲やキャッチボール、狭山丘陵での虫取り、回り将棋や凧揚げ。ダンボールでの土手滑り。なんでも一緒に本気で遊ぶ。
ある時一番下の女の子が
「おじいちゃんは子供みたいだね」
と言う。
「そうだ。幼稚園を卒業してないからまだ子供だよ」
と言うと孫が目を回して
「そうなんだ!幼稚園楽しいのにどうして行かなかったの?」
と驚いていた。孫は幼稚園が大好きだった。
運動会の時に孫が友達に私を紹介をした。
「私のおじいちゃんだけどね、まだ子供なの」
友達は怪訝な顔をして私を見ていた。

私の自慢は大貫幼稚園中退なのだ。



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No.212 食いしん坊の独り言

冬の丘
「冬の丘」水彩 F6



「サッパのちんちん焼き」 
 子供の頃に数センチの鮒のようなサッパを焼いてよく食べた。炭火で表面が焦げるほど焼いて、それを酢醤油に漬けると「ちんちん」と音がするからその名がついたらしい。食卓の七輪に金網を乗せて、そこで焼きながら食べる。骨も鱗も内臓も一緒に食べてしまう。これが美味しい。
 サッパのチンチン焼きと言っても、我が家以外ではどこにも通用しないのかもしれない。
「母の鯖寿司」
 冬になると母が鯖寿司を作ってくれた。脂ののった大きな寒鯖を使う。握りではなくいわゆるバッテラだ。鯖の身が厚くて切り分けると中はピンク色をしている。これが美味しい。今でも、鯖寿司を見るとつい買ってしまう。寿司屋に入るとまずシメサバを握ってもらう。でもその度にがっかりする。
 つい最近業を煮やして、自分で作ることを思いついた。押し寿司用の檜の箱を買って、レシピを頼りにやってみたけれど、無残な結果だった。美味しい鯖寿司が食べたい!
「小鯵、鰯の刺身」
 新鮮な小アジや鰯をザル一杯買って、三枚におろしてそれを生姜醤油で食べる。これは又美味い。炊きたてのご飯があれば他は何もいらない。鯵はなるべく小さい方が美味しい。イワシは片口鰯だ。これはもっと小さいから指で頭を落とし中骨を取って丁寧に刺身にする。うんと手間をかけてようやく出来上がっても、一口で食べてしまう。でもその美味しさにやめられない。海辺に住んで新鮮なものを手に入れないとダメだ。特に片口鰯は都会では全く手に入らない。
「アイナメの煮付け」
 魚は何が一番うまいか?と聞かれると迷うことなく「アイナメ」という。堤防下の岩礁や岩の根元に住んでいて、ブラくり仕掛けで釣り上げる。これを煮付けにすると、少し黄身がかってしっかりとした白身は奥行きのある味で実に美味い。塩焼きや刺身は食べた記憶がない。もちろん美味しいのだろう。

海から丘に上がって、所沢に越して山のものを食べるようになった。初めて食した美味しいものにたくさん出会った。

「ソルダム」
 知り合いの農家から取れ立てのソルダムをバケツ一杯いただいた。緑色をした大きな果実だった。これをかじると中は血のように真っ赤で、甘くて酸味があって美味い。故郷の内房では見たこともなかった。それ以来初夏になると分けてもらってたくさん食べた。この時期を逃すと来年までお預けになる。その後、近所の栽培する農家がなくなって塩山の農園に毎年買い出しに行った。私の大好物。
「芋がら」
 裏の80歳になるおばあちゃんがある日、「芋柄ですけど、こんなもの食べますか?」と言いながら持ってきてくださった。話には聞いたことがあるが、食べるのは初めてだった。焦げ茶色の汚らしい姿に、恐る恐る箸をつけた。ぬるぬるしてコリコリする不思議な食感で、複雑な味わいがある。
 これですっかり芋がらに取り憑かれてしまった。以後はスケッチ旅行に出かけると、現地の道の駅に寄って必ず芋柄を仕入れてくる。干した芋柄は保存がきくので便利だ。水で戻して油揚や鶏肉と一緒に、ごま油で炒めて醤油とみりんで味付けをする。大人の味。炊きたてのご飯にこれさえあれば何にもいらない。今では勝手に全日本芋柄愛好会会長を自認している。
「柚子の砂糖漬け」
 香り高い柚子は薬味でしか知らなかった。お吸い物や酢の物にちょっと入れるだけで見違えるように美味しくなる。所沢に来て見るとどこの庭にも柚子が植えてあって、秋になると黄色い実がたわわに実っていた。暫くして近所の知り合いからバケツ一杯の柚子をもらって戸惑った。薬味に使うのでは一年分はある。どうしようか?ジャムを作るしかないと思っていたけれど、美味しい食べ方を教えてもらった。
 実を輪切りにして砂糖漬けにするだけだった。1日置くと果汁がたくさん出て柔らかくなる。これをムシャムシャと頬張る。身体中に香ばしい柚子の香りが染み込むようでこれが美味い。バケツいっぱいの柚子はアレヨアレヨという間になくなってしまった。
 産地ならではの贅沢な食べ方なのだろう。以後毎年秋はこれを楽しみにしている。





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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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