脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このページのトップへ

No.205 ハゼ釣り

渓流一隅
「渓流一隅」 水彩F6


 内房の海で育ったから、子供の頃は海が格好の遊び場だった。釣りもよくやった。高校2年の時に父親の転勤で東京に移った。それから大学に入り就職して、慌ただしい都会生活を過ごしていた。所沢に転居し子供も大きくなってようやく生活が落ち着いてきた。無性に海が恋しくなった。でもその頃の海は遠かった。内房の故郷大貫までは車で6時間はかかった。三浦半島や茅ヶ崎も同じだった。
 そんなある時、何がきっかけだったか記憶にないが初秋の東京湾にハゼ釣りに出かけた。釣り船に乗れば広い海に出れると思ったのか?品川から京急に乗り換えて1駅の北品川駅から2〜3分歩くと、運河沿いに小さな釣り宿があった。そこにほとんど手ぶらで飛び込んだ。
 小柄で気さくなおばあちゃんに釣り竿、仕掛け、餌、弁当、飲み物をみんな用意してもらった。10人ほどの客が一緒だった。釣り船はエンジン音を立てて工場や倉庫の間の狭い運河を走っていく。帆柱を倒して低い橋桁をいくつも潜って進んだ。やがて潮の匂いが強くなると広い東京湾に滑り出て行った。深呼吸をすると懐かしい潮の香が胸一杯充満してきた。東京港の倉庫や岩壁の反対側はるか遠くに故郷の内房が低く霞んで見えた。穏やかな海だった。
 
 船頭の合図でハゼ釣りになった。釣りは15年ぶりだろうか?柔らかな海風に吹かれながら、ウキを眺めていた。
私はしばらくして数匹のハゼを釣り上げた。隣の麦わら帽子をかぶって、小粋な格好をしていた老人が声をかけてきた。
「良い型のハゼですね。私の方はさっぱりです。あなたの竿が良いんですかね。仕掛けはどうですか?」
という。
自分の竿も仕掛けもみんな船宿の借り物ですというと
「う〜ん、やっぱりそれが良いんですね。私はこんな竿なんですがね。ダメですな」
という。その竿は見るからに高級な和竿で、先の方が綺麗な曲線を描いている。しかも2本使っていた。そのうちに老人は数匹の大きなハゼを釣り上げた。すると
「いや〜、良い型でしょ!私のこの竿が良いんですね」
とお満悦だった。やがて私がまた続けて釣り上げると
「いや〜、やっぱりあなたの竿が良いのかもしれませんな。私のは柔らかすぎますな」
という。そんなやりとりを繰り返している間中その老人は、上品で柔らかな笑みを絶やさない。
 十匹ほどのハゼを持って釣り宿に帰ると、おばあちゃんが熱いお茶を入れてくれた。私の籠を覗いて奥に入ると20本ほどの干したハゼを持ってきて
「素焼きして干したハゼだよ。これを正月に甘露煮にすると旨いよ」
と渡してくれた。その正月にそれを甘露煮にして食べたという記憶がない。

 それからハゼ釣りに北品川に足繁く通った。いつも一人だった。時々老人と出会った。クーラーボックスと釣り竿をわずかな小遣いで買った。ハゼはいつも天ぷらにして食べた。
 山手線の品川駅の南側に北品川駅がある。変だなと思って調べて見ると、江戸時代の東海道の品川の宿はそこからさらに南だった。だから北品川だったのだ。





スポンサーサイト
このページのトップへ

No.204  アオバズク悲話

柚子のなる丘
「柚子のなる丘」水彩 F6



 毎年5月になると南方からアオバズクが飛んできて、近くのケヤキの洞に巣を作って子育てを始める。暖かい月夜の晩によく「ホー、ホー」と鳴く。近くの電線に止まっているを何度も見たこともある。鳩ほどの大きさで、薄明るい夜の空に黒いシルエットになっている。その愛嬌のある顔は写真で知った。ここへ越してきてから40年間毎年変わらない年中行事だった。
 他ではなかなか聞くことが出来ないと知ったのは、だいぶんたってからだった。何人もの人がそれを聞きにきた。
 例年遅くても6月末には鳴き出すのに、今年は待てど暮らせど鳴かなかった。気になって夜になると何時も耳をすましていた。どうしたのだろう?何千キロの長い旅路の途中でで何かあったのか?
 7月末の暑い日に、ようやく「ホ、ホー」と鳴く声が聞こえた。戻ってきたと嬉しくなった。しかし、それ一度きりでそのあとはいくら耳を澄ましても鳴かない。
 思い返せばここ数年聞く機会が少なくなった。今年は郭公もほとんど鳴かないという話も伝わってきた。そして8月に入って記録的な長雨続きで、ようやく二十日ぶりに日差しが戻ってきた。でもそのせいとは思えなかった。何かアオバズクの身に変化が起きているのかもしれない。

 今朝の東京新聞の朝刊を開くと「少なくなった野鳥」という見出しの記事が目に止まった。千葉の成田にある印旗沼は水田と葦原に囲まれた大きな沼で、貴重な野鳥を含めて50種以上の鳥が生息しているという。ところが隣接する場所に大規模な太陽光発電所が建設された。その影響で生息する野鳥が10種類ほどに激減しているという記事だった。
 私の家の近くにもゴミ処理場を埋め立てた後地に、最近大規模な太陽光発電所が作られた。その影響が出ているのだろう。なんだか腑に落ちる話だった。野生生物は環境の変化に敏感だ。

 最近方々の空き地にソーラーパネルが並べられているのがすごく気になる。田舎に行くと車窓からたくさん見かけるようになった。自然エネルギーというけれど、おかしな事ばかりが気になっている。以下にそれを要約する。

(1)発電コストが高く採算が合わない。その分を一般の電気料金に上乗せしている。
(2)発電が不安定で、必要な時に発電されなかったり、不要な時にたくさん発電して無駄が多い。
(3)設置周辺の環境が悪化する。
  ・あまり人家に近いとパネルの反射で近所の住宅が熱くなる。
  ・畑や緑地、湖の上に大規模設備を作ると、周囲の気温が上昇する。
  ・パネルの下の生態系が破壊されて、動植物が住めなくなる。
  ・発電した直流を交流に変換するインバーターが強い電磁波を発生する。
(4)ソーラーパネル製造に使われる電気量は、それで発電する電気量の3倍になるという。つまりその分石油や原子力による発電で補っていることになる。
(5)巨大な利権構造になっていないか?
  ・採算も合ないし、その上再生可能な自然エネルギーでもないのに、今日本中に急速に普及しだしているのはなぜか?
  ・ソーラーセル製造メーカーが儲かり、そのメガソーラー設置会社も多くの利益を上げている。
  ・その利益はすべて一般の電気料金で負担をしている。
  ・耐用年数が過ぎるとそれを廃棄する費用がかかるが、それがカウントされていない。多分すべて税金で賄うつもりだろう。


 以上おかしいことばかりだけれど、これは原子力発電の問題と瓜二つだと思う。原子力発電の当初は夢のような技術として登場した。鉄腕アトムがその象徴だった。そして知識人がそれを強力に支持したのだ。その点でも今のソーラー発電はとてもよく似ている。
 そして皮肉なのは反原発を主張する多くの人たちがこの太陽光発電を推進している。原子力発電も太陽光発電も夢のエネルギーという美名に隠れて、金儲けのためにやっているのだ。私たちは何度騙されれば気がすむのだろう。
 
 空き地があれば森や畑にして、川を綺麗にし海を豊かにする。それが一番なのだ。そうすれば、アオバズクも郭公も多くの野鳥や昆虫や魚がたくさん繁殖して、長い目で見れば人も持続的な生存ができるようになる。そうすることが太陽光の最も有効な利用法なのだ。
 狭山丘陵のゲンジボタルが絶えて久しい。アオバズクもそうなるのだろうか?








このページのトップへ

No.203 寒い夏

丘陵の木槿
「丘陵の木槿」水彩F6




 8月1日から16日間も雨が続いている。7月末の猛暑が嘘のようだ。その暑い最中にスケッチの下見に出かけた。良い場所が見つかったので、順次描きに行く予定であった。しかし連日雨で一週間ダメになった。仕方なく曇天の中を近くの西久保観音堂に出かけた。畑の中に青い木槿が咲いていた。
そのあとも雨が毎日降っている。今日は10月並みの気温だという。

 科学者の大方の見解では、地球は昨年あたりから寒冷化に向かいだしたという。30年ほどでかなり寒くなりそれが200年ほど続くという。小氷河期になるらしい。
 地球の気温に最も大きな影響があるのは太陽の活動で、その強弱を示すのは黒点の数だという。活発になると数が増え弱くなると減少する。昨年の6月からその太陽の黒点が極端に減少して、ほとんでゼロになった状態が一年近く続いている。ある人はその黒点の状態を見て今年の夏は冷夏になるだろうと予測をしていた。それが的中した。

 人間の影も形もない大昔から地球の気温は大きく変動をしている。氷河期と温暖期が無数に繰り返されている。縄文時代の気温は今より3度近く高かったという。直近では1650年〜1750年ごろの江戸時代は今よりかなり寒かったらしい。冬は雪が多かったという。そういえば桜田門外の変の時も雪だった。赤穂浪士の討ち入りもそうだった。同じ頃のロンドンのテムズ川の上で大勢の市民がスケートをしている絵がある。
 寛永、享保、天明、天保時代は冷害による飢饉が頻発した。しかも宝永時代には大地震が起きて、富士山が噴火した。天保時代に浅間山も噴火した。
 太陽風がバリアーになって、強力な宇宙線が地球に降り注ぐのを防いでいる。太陽の活動が弱まると宇宙線は地球に沢山降り注ぐ。その宇宙線が地中のマグマの活動を刺激して地震や火山の噴火が多くなるという。

 歴史を振り返れば、温暖な時期は食料が豊富になり平和が続き文明が発達した。寒冷化すると食糧危機になって戦争が多くなり文明は衰退する。寒冷化の方が大変らしい。
 地球は1750年ごろから次第に温暖化して現代に至っている。そのお陰で現代文明がここまで発達したのかもしれない。これから寒冷化すれば衰退していくのだろう。

  人類が排出するする炭酸ガスによる温暖化が問題になっている。しかし自然界の火山や森林や海から発生する炭酸ガスの量は膨大で、人間が排出する炭酸ガスは取るに足らない量だという。
それに空気の組成は、
 窒素:78%  酸素:21%  アルゴン:0.95%  炭酸ガスなど:0.05%
である。
 その元々わずかな炭酸ガスがPPM単位で増加したところで何の影響もないだろう。 素直に考えれば、陽が昇ると急激に暖かくなり日が沈めば寒くなる。だから太陽の活動が最も大きな影響を与えるのは子供でもわかる。炭酸ガスによる地球の温暖化説は変だと思う。この巨大な地球に、このちっぽけな人間が大きな影響を与えられるとは思えない。
 仮に影響を与えたとしても、人間の存在も繁栄も自然の成り行きなのだ。これまで人類は自分自身をキチンとコントロールできたことがない。想像もしない便利な文明の機器を作り出したが、行きがかりでそうなったのだろう。その流れに乗って暮らしていくしか選択肢はないのかもしれない。
そして嫌だ嫌だと言いながら戦争を際限なく繰り返している。











このページのトップへ

No.202 奇妙な遊び

猛暑緑陰2
「猛暑緑陰」 水彩 F6


 小学校の頃に小さな蜘蛛を喧嘩をさせる遊びが流行った。フンチという1センチほどの黒光りをする蜘蛛だ。この蜘蛛を持ち寄って、昼休みに喧嘩をさせて勝敗を楽しむ。手のひらを土俵にして二匹の小さい蜘蛛が土俵入りの不知火型のように両手を上げて睨み合って、やがて激しく組み合って喧嘩をする。しばらくもみ合っているうちに負けた方が逃げ出す。勝った蜘蛛は負けた蜘蛛をそれ以上は追わない。勝負アリなのだ。みんな大事に育てた蜘蛛を次々と持ち出して勝ち抜き戦をする。

 その蜘蛛を探すのに夢中になった。大きくて黒光りをするのはオスの蜘蛛だ。メスは茶色い地味な色をしている。晴れた日の新緑の槇の葉の上で日向ぼっこをしている。捕まえると桐の飼育箱に入れておく。タバコの箱ほどの大きさで、2センチ角の小部屋が作ってあり、その上にスライド送りの蓋があった。その中に綿を敷いてそこにフンチを入れる。この桐の箱は近所の雑貨屋で売っていた。
 
 蜘蛛の餌は生きた蝿だ。蠅叩きでは潰れてしまうし、ハエ取り紙というやつが天井から吊るしてあったけれど、これも剥がすときに潰れてしまう。
 だから停まっているハエを傷つけないように手で捕まえる。これが難しい。夢中で朝から晩までやっていると、しばらくすると簡単にできるようになった。ハエはそこら中に飛んでいた。
 この生きた蝿を箱に入れてやると、自分の体ほどもある蝿を美味しそうに食べる。水もやらなければならない。小指の先に唾きの泡を作ってそれを蜘蛛の目の前に差し出すと、その自分の体ほどの泡に頭をつけてそれを飲んだ。
 冬は蜘蛛が凍えないように懐にその箱を入れる。春先に脱皮する。すると一回り大きくなる。そして頃を見てみんなで持ち寄って蜘蛛合戦をする。人と同じで大きい方が強いとは限らない。

 今考えると大人たちは奇妙な遊びに夢中になっていた。
この蜘蛛合戦は江戸時代の昔から私の育った内房の大貫付近でやっていた遊びで、大人は賭けをやっていたという。
 その頃、一番すごかったのは、駅近くの空き地で大々的に行われた闘犬だった。近郷近在から檻に入れられた土佐犬が運び込まれた。木の枠で囲われた土俵で大きな土佐犬が唸り声をあげて血だらけになって噛み合う。怖かった。横綱大関は綺麗な化粧回しをして出場した。周りで大人たちは酒を飲んで観戦をして賭けをする。
 闘鶏もやっていた。赤いトサカに黒光りのする羽が綺麗だった。喧嘩をするとすざましい叫びをあげて足の爪で戦った。羽が空中に飛び散る。一度だけ見た記憶がある。
 鶯や雲雀を捕まえて飼育をして、春になると近郷近在で持ち寄って鳴き比べをしていた。この鶯を山に捕まえに行ったことがある。
 まずは鳥黐を作らなければダメだ。庭にある黐の皮を剥がしてそれを石で潰し水で丁寧に洗って樹脂を取り出す。ネバネバしてガムのようだ。それから鳥籠で飼われている鶯を借りてきた。それを山の木の枝に吊るしておく。その近くの小枝の下に鳥黐を這わせておく。そしてだいぶ離れた場所のガサ藪に身を潜めてじっとしている。
 やがて籠のウグイスが囀り出す。息を殺して何時間待っていただろうか?山のウグイスが鳥籠に近づいてきた。鳥黐を這わせた枝にそのウグイスが止まった。異常に気づいて飛び立とうとして足がくっついて飛び立てずに、小枝にコウモリのように逆さにぶら下がってしまった。
 この光景は鮮明に記憶している。誰と行ったのか、大人が一緒だったのか周辺の記憶はない。
どれも江戸時代から続く大人の遊びだったらしい。

 フンチの喧嘩遊びは東京湾を渡った対岸の横須賀でもやっていたという。横須賀ではホンチというらしい。他では聞いたことがない遊びだった。私の子供時代に流行ったのを最後に絶えてしまったのだけれど、最近隣町の富津でフンチ愛好会なるものができて、蜘蛛合戦が復活しているという。

 当時の大人たちはいろいろな遊びを生活の一部にして楽しんでいた。それを見ると江戸時代の庶民の豊かさが分かる気がする。文明とは遊びそのものなのだ。






このページのトップへ

No.201 塩沢堰の話

女神湖の遊歩道2
「女神湖の遊歩道」水彩 F6



 主催する木曜スケッチ会は毎月第3木曜日に、バスで日帰りスケッチ旅行をする。ただし7月だけは第四木曜日にしている。第三木曜日では梅雨が開けないからだ。
 毎年7月と8月は暑さを避けて高原に行く。しかし日帰りで行ける高原は行き尽くした感があって、今回は秋に一度行った蓼科高原の女神湖を選んだ。少し場所を変えて東岸の葦のある湖岸で描くことにした。そこへ行くコースも関越道、長野道、中部横断道を走って、北佐久の立科から女神湖を目指す初めてのコースにした。薄曇りで時折薄日が差す日和だった。

 女神湖の正式な名称は「赤沼温水溜池」で、蓼科山の北西4Kmの高原にある農業用人造湖だという。標高1.540m周囲1.5Km。赤沼温水溜池とは随分即物的な名前だ。昔はもしかするとここに温泉が湧いていたのかもしれない。一方、女神湖という名前も少女趣味で観光用のネーミングかと思ったが蓼科山の別名は古来より女神山(めのかみやま)と呼ばれていて、それが名前の由来らしい。
 江戸時代、蓼科山麓の水を集めて塩沢堰という用水が開発された。総延長55Kmの用水路で、これによって立科地方は豊かな穀倉地帯になった。この塩沢堰を開発したのは、武田家の家臣であった六川長三郎で、主家が滅んで徳川時代に帰農し、やがて私財を投じて塩沢堰を六年の歳月を費やして1646年に完成させたという。戦後その塩沢堰と赤沼温水溜池を改修工事をして、現在も北佐久平の農業の重要な用水路になっている。
 380年後の今も第12代の六川長三郎氏が塩沢堰の運用、管理、保守を担っているという。水源は蓼科山麓の中腹の二箇所で、これを合わせて総延長55キロの用水路を作って山麓の立科まで導水した。この用水沿いは今も快適な自然散策路になっている。全国疎水百選の一つに選ばれている。
 
 江戸時代は米が経済の中心だったので、水利工事や灌漑工事が最も重要なことだった。関東平野の幕府直轄の大規模な水路付け替え工事は夙に有名だった。荒川、利根川、隅田川、江戸川、渡良瀬川のほとんどの河川は大規模な改修が行われた。江戸湾に流れ込んでいた利根川は太平洋に流れるようになった。これらの大工事は幕府直轄の代官伊奈備前守の指揮で行われた。大名の領地内は無論藩の直轄工事で行われる。しかし、小規模な水路や灌漑工事はこの塩沢堰のように民間に委託される場合が多かったらしい。
 有名なものに箱根用水がある。小田原藩の裾野一帯は水利に恵まれず未開発地が多かった。その対策を思案していた名主の源之丞は江戸・浅草の商人友野与右衛門の支援を得て芦ノ湖の水をこの地に送る計画を立てた。幕府の許可を受けて1666年に着工して5年の歳月をかけて完成した。本来ならばこの用水を作った名主と友野与右衛門が水利権を得て、その灌漑した水田から一定の利用料を得て投資を回収をするのだが、この箱根用水の場合は複雑な幕府内の利権争いの中で翻弄されて、両名ともに暗殺されてしまったという。

 佐久平には他に同じような用水がいくつもある。五郎兵衛用水、御影用水、岩村田用水などだ。五郎兵衛用水を作った市川五郎兵衛はやはり武田の家臣だったという。

 涼しい女神湖沿いの遊歩道はホテル前から樹林の中に入って行く。その中に小さな滝があって綺麗な水が涼しげな音を立てて女神湖に落ちていた。この水が塩沢堰から注ぐ水であった。





このページのトップへ

No.200 徒然の記

五日市の民家
「五日市の民家」F6水彩



 伊那谷の駒ヶ根で、井上井月を初めて知ったのは十年ほど前だったろうか?その経緯は一度書いた。
 何故か放浪の詩人は人を惹きつける。同じような俳人は他にもいる。種田山頭火、尾崎放哉などもそうだ。彼らにまた多くの人達が魅せられる。独特の漫画を描くつげ義春もその一人という。「無能の人」という作品の中でそれを書いている。
 現世の名利やしがらみを全て捨てて放浪をし、身一つだけの衣食を人の喜捨に依存する。そして我が身の五感に触れる純粋で素朴な実感だけを味わい生きていく。
 人が生きるということを突き詰めていくと、結局そうなってしまうのだろう。俳句は極限まで凝縮された詩で、それが彼ら放浪の詩人にふさわしい。
 井上井月は伊那谷の路傍で行き倒れたところを発見された。66歳だったという。

 ロシア人のアルセーニェフの「ウスリー探検記」の中に、原住民の猟師デルス・ウザーラが描かれている。森の自然を全て知り尽くして、シベリヤの厳しい原生林で生涯を単独で猟をして生きている。雪の上の足跡を見て何がいつ頃どの方向へ歩いて行ったかを瞬時に嗅ぎ分け、わずかな気配で天候の急変を予知できる。このデルス・ウザーラの案内でロシアは長期にわたるウスリー地方の探検、調査をする。
 晩年に肉体の衰えで猟ができなくなったデルス・ウザーラに、アルセーニェフは街での保証された生活を提供をする。しかし彼はそれを断り厳寒のウスリーの森に一人で帰って行く。やがて雪に埋もれて発見される。

 この人たちの生き様は、現世の名利やしがらみの中であくせくと生きる人たちに、人が生きるという単純な原点を思い起こさせるのかもしれない。人も所詮は単純な生き物なんだよと。

・降るとまで 人には見せて 花曇り
・落栗の 座を定めるや 窪溜り
・何処やらに 鶴の声きく かすみかな   井上井月







このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



<br /><BGSOUND SRC="http://blog-imgs-24.fc2.com/s/e/i/seifu/koi.mid" width=80 height=20 autostart=true repeat=true loop=true><br />
※このブログ内の文章及び画像の無断転載を禁止いたします。 

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。