FC2ブログ

脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このページのトップへ

No.195 八海山

八海山・晩秋「八海山・晩秋」水彩 P15



 越後三山の八海山を知ったのは、銘酒「八海山」がきっかけだった。写真を見ると両端に坊主の形をした峰に挟まれて、小さな岩峰が連なっている。美しい姿ではないが、一度見たら忘れられない奇妙な山容だった。標高は1.778mであった。 秋に下見を兼ねて2度絵を描きに出かけた。裾野は一面に黄金色の稲穂に染められて、民家や森はあるが遮る山もなく険しい山頂に駆け上がっていた。前景の長閑な田園と対照をなして、山は一層険しく見えていた。絵を描き終えて山腹を少し上がると、鬱蒼とした杉の並木の奥に、八海山神社が鎮座していた。

 由緒書きを読むと、八海山は古代からの山岳信仰の霊場で、中臣鎌足公が御神託を頂いて祠をもうけたのが始まりと伝えられて、役行者小角(えんのぎょうじゃおづぬ)、つづいて弘法大師が頂上で密法修行されたという。
この地出身の木食泰賢(もくじきたいけん)行者が木曽御嶽山の中興開祖・普寛と共に登拝道を開き、八海山は御嶽山の兄弟山として全国にその名を知られるようになり、各地の御嶽講が訪れるようになったと記されていた。山を越えた北側に八海山尊神社があり、そこが本宮で規模も大きく参道も賑わっているらしい。

 山伏が白装束で法螺を吹いて、険しい山を巡る山岳信仰とはなんだろうと思う。富士山はもとより名だたる日本の山の山頂には鳥居と祠があり、霊場となっている。著名なのは出羽三山の羽黒山、湯殿山、月山だ。近所の人たちも講を組んで時々大勢で参拝に出かけている。地元の八幡神社境内には湯殿山神社があり毎年祭礼もやっている。八海山の由緒書きにある御嶽講も盛んだ。青梅の御嶽山は近いのでみんなよく出かけている。鳥居があり祠がありお宮があるのだから、無論神道なのだ。
 しかしこれを宗教というには少し躊躇してしまう。宗教には教義や哲学、戒律がある。膨大な聖書やコーラン、経典を持っている。そしてキリストやマホメットやブッダという教祖がいる。しかし神道はそんなものはほとんどない。ただ礼拝し拍手して敬い恐れる。神主は意味のわからぬ祝詞を上げているだけだ。その違いは歴然だ。諏訪大社の御神体は背後にある守屋山だという。浅間神社は無論富士山。御嶽山もそうなのだ。

 最近立ち上げた「小手指古代史探求会」の唯一の会員と話をしていると、彼曰く、沖縄には御嶽(うたき)という聖地があり、そこで祖霊を祭り礼拝するという。写真を見ると、そこには神社はなくただ岩が組まれていてその前に広場があるだけである。組んだ岩の間から海が見えた。その御嶽(うたき)という字を見て、これは山岳信仰だ!と思った。神道と同じで、いわゆる原始的な自然信仰なのだろう。太陽や月、山や海が御神体なのだ。
 思えば、ユダヤ教の聖地の御神体はモレヤ山といい、奇しくもそれは諏訪大社と同じ名前だという。白装束の神官が頭に黒い箱を縛り付けて角笛を拭くという。これは山伏とそっくりだ。ユダヤの祭りのクライマックスは7月17日、日本の祇園祭の山車が出る日と同じで、この日はノアの箱舟がアララト山に漂着した日だという。八海山の開山には中臣鎌足や空海が関わっている。二人とも大元はユダヤ人という説もある。

 その後木曜スケッチ会で八海山スケッチを計画した。しかし天候不順で3度中止になった。あるベテランの会員曰く「八海山は描くものでなく、飲むものなんですね!」という。しかし4度目にようやく実現した。当日は曇天だったが雨は降らず穏やかで暖かかった。八海山は前日の初雪で白く雪で覆われていた。裾野のまだ少し早い紅葉に映えて綺麗だった。




スポンサーサイト
このページのトップへ

No.194 廃校の夏 

廃校の夏「廃校の夏」水彩 P15



 甲斐駒を盛んに描いていた頃は、麓の白州町に頻繁に通っていた。宿泊はいつも「見晴し亭」にする。大武川の最上流の山懐にある静かな温泉宿だった。風呂の窓から北方遥かに八ヶ岳が一望できた。裾野が緩やな綺麗な曲線をどこまでも引いている。初夏には宿の下の小川にホタルが飛ぶ交う。
 泊まる部屋はいつも2階の南側の小部屋にしてもらった。この部屋の窓を開けて上を仰ぐと、甲斐駒ヶ岳の頂上が真上に見えた。
 新緑の5月、このあたりは一面のニセアカシヤの白い花に囲まれる。絵を描いていると上品な香りに包まれて、それだけで幸福であった。この頃、夕食に白い花房の天ぷらが出る。口に入れるとほのかな香りがする。
 何度目かの時に、白州町の中腹に緑に囲まれた古い学校を見つけた。校庭に数人の子供たちがいた。古色燦然とした木造の校舎だった。暗い影の中で、渡り廊下が鈍い反射光を放っている。脱色した板壁が美しい。懐かしさで思わず見惚れた。
 急遽この校舎を描こうと思い立って準備をしていると、先生らしき若い女性がきて話かけてきた。ここは東村山市の林間学校だった。校舎は明治時代の建築で、この夏を最後に解体されるという。
 だいぶ描いて一段落したので木陰で香ばしいほうじ茶を飲み、おにぎりを食べた。仕方ないと思いながら校舎を眺めていた。時の流れは止められない。故郷の大貫小学校の木造校舎もとうに無くなってしまったという。

この絵を描いたのは1998年7月26日、もう18年前も前になる。





このページのトップへ

No.193 船を作る 

水路の夏「水路の夏」F6 水彩


 海岸の背丈が低い防風林は海から、遠ざかるほどに背丈が高くなり下は密集した笹薮に覆われていた。その笹薮の中を暫く掻い潜ると突然四角い小さな池に出た。人家や道からも遠く離れ全く人気はない。偶然に見つけたのだ。キヨちゃんと僕はここで密かに船を作ろうと思った。船に乗って海で遊ぶのは、僕らの夢だったからだ。
 まずは池のほとりの薮を払った。そこに父ちゃんの大工道具を少しずつ運び込んだ。家の裏にある古材や廃墟になった別荘のはめ板も剥がして運び込んだ。

 設計図もなく行き当たりばったりの船作りだった。尖った船首は難しいので箱舟にしたが、それでも船首は少し細くようと思った。授業中もそのことばかり考えていた。帰宅すると毎日秘密の造船所に通った。。難題はオールとオールの指示軸だったが、苦労の末なんとか作り上げた。そして最後は水が漏れないように板の隙間にシュロ縄をドライバーで押し込んだのだった。完成したぞ、進水式だ!と僕らは興奮した。

 池に船を浮かべて僕は飛び乗った。すると底板から水が噴き出してまたたく間に沈没して、浅い池の底にぶつかった。僕はずぶ濡れになった。板の隙間に機械油や蝋燭を垂らしても水は漏れてしまった。
 ちょうどその頃町で初めての舗装工事が始まっていた。それを見ていて、「水止めはこれだ!」と直感した。コールタールを少し失敬した。それを温めて柔らかくし、細い紐状にして底板の隙間を丹念に埋めた。
二回目の進水式は上出来だった。「やったー、完成だ!」僕らは小躍りをして喜んだ。

 本当の進水式は海だ。でも海までは松林や砂山を超えて1キロは有る。それに船は意外に重くて二人では運べない。いつの間にかもう秋風が吹いて、海も寒くなっていた。でも早く海に浮かべたい。秘密はもうやめにして、二人の仲間に頼んで四人で船を運んだ。
 
 海は少し風が吹いて波立っている。満潮だった。浅瀬に海苔の養殖の竹が一面に立っていた。その竹林を避けて進水することにした。今度はキヨちゃんの番だ。僕はキヨちゃんが飛び乗った船の後ろを強く押し出した。船は少し荒い波間に見事に浮かんで進んでいった。風が強くなって波立ち、船は竹林の方に流され出した。「おーい!そっちは危ないよ」キヨちゃんは必死にオールを漕いだけれど、とうとう海苔の養殖の竹林の中に突っ込んだ。船底を竹に突き上げられて、転覆した。キヨちゃんは海に投げ出された。

 それから1年ほどの間、僕たちは天気の良い穏やかな日は、その船で何度も沖に釣りに出た。漁港の中を面白くて漕いで回った。2キロ先の堤防まで船で渡り、遊んだ。
 普段は岩瀬川の河口の茂みに隠して係留しておいた。でも皆んなに知れ渡って、留守中に何度も無断で乗り回されて、とうとう無残にも壊れてしまった。






このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



<br /><BGSOUND SRC="http://blog-imgs-24.fc2.com/s/e/i/seifu/koi.mid" width=80 height=20 autostart=true repeat=true loop=true><br />
※このブログ内の文章及び画像の無断転載を禁止いたします。 

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。