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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

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No.140  麗しき日々

秋の八方尾根「八方尾根」P15


 この3月で、東北大震災から満2年になる。いまだに昨日の出来事のようだ。あれ以来全てが根底から崩れて、一変したような気がする。隠蔽されていた日本社会の矛盾や嘘、腐敗が、隠しようもなく白日の下に露呈した。知っているつもりであったが、それは想像をはるかに超えていた。
 明治維新以降の私達の国は、諸外国の密かな支配で操られていたのだ。そしてこの大震災とそれによる原発事故の危機のさなかに、国論は分裂し政治は乱れ混乱している。周辺国との緊張がなぜか故意に煽られて、軍事費がいっそう増強され始めた。
 東北太平洋岸の津波の被災地の復興はなおざりになっている。福島ではチェルノブイリの強制退去地に相当する汚染地域の150万人は、いまだに放置されたままだ。こういう時に助け合う為に私達は税金を払っているのではないのか?。
 この2年間のわたしの生活も、それまでとは一変した。豊かで穏やかなかけがえのない故郷日本は、急速に崩れ始めている。この先大丈夫なのか? 子供や孫達の将来が心配でならない。何か私達に出来ることはないのか?
麗しき日々はふたたび戻ってくるのか?


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No.139 キツネの足跡

狐の足跡

 1月13日に思わぬ大雪が降った。辺り一面真っ白な雪景色になった。翌朝我が家の西の畑に、一直線の動物の足跡が見えた。数日そのままにしておいたのだが、家内が「トトロのふるさと基金」の動物に詳しい人に話したところ、「一直線はたぶんキツネです。写真を撮ってもらえますか?」という話であった。電話を受けた私が早速これを写した。写真を見せると、キツネの足跡ですとお墨付きを頂いた。
 夜に我家のゴミ箱をひっくり返していたのだ。その日から庭に残り物の肉や魚を置いておくことにした。朝にはなくなっている。
 この狭山丘陵には貴重な自然が残っていて、野生動物が多くいる。夜になると庭先にタヌキが良く餌を探しにくる。ある時はハクビシンがやってきた。薄暗い蛍光灯の明かりの中をうろついていた。雉やコジュケイも多い。毎年5月頃になると大きなケヤキの洞に、アオバズクがやってくる。暖かい月の晩に「ホッホー、ホッホー」と鳴き交わす。源氏ホタルや平家ホタルも毎年観察に出かける。この30年ほどでだんだん少なくなり、寂しくなったからこのキツネは嬉しかった。ここに移り住んで初めてだ。
 インターネットで写真を見た。きりっとした顔つきで都会的な紳士である。一直線の足跡がよく似合っている。可愛らしくて賢そうな顔である。警戒心が強く夜行性だという。それにしても世間では悪役にされているのは、どうしてなのか調べてみた。
 キツネは人に縁が深い。すぐに連想するのは「お稲荷様」と油揚げである。油揚げがキツネの好物だからという。色がキツネ色だからという説もある。しかし稲荷神社とキツネはどう言う関係だろう。
 稲荷神社は京都の伏見稲荷大社が総本山で皇室の有力庇護者であった秦氏の創建による。秦氏は秦の始皇帝の末で日本に帰化して大豪族として政治の中心的な存在であった。ユダヤ人だという。稲荷神社は食物、農業、商業の神であったから、神前に供えた米俵のかわりに色や形の似た稲荷鮨を備えたという説もある。しかし関西では三角形が主流だそうだ。
 日本にある登録されている稲荷神社は35、000社ほどらしい。小さな祠などをいれると膨大な数になるという。私の近所だけを見ても、すぐに10は数えられる。
 むかし日本三大稲荷の一つの豊川稲荷神社を訪ねたことがある。ここに荼吉尼天(ダキーニ天)が祭られていた。「バガバッド・ギータの世界」上村克彦著によれば、これはヒンドーのシバァ神の妻カーリに使える魔女で、ジャッカルに乗るといわれている。そしてそのジャッカルが日本ではキツネとされたという。それが稲荷神社とキツネが関係する由来という。たしかに魔女の乗り物だ。豊川稲荷は曹洞宗の妙厳寺で神仏混淆であった。
 キツネは人を化かし、悪さをすると恐れられている。その典型は九尾のキツネだ。発端は中国古代の山海教にある霊獣であったが、明の時代に、紂王の妃の姐己に取り付いて悪逆の限りを尽くすという悪役に仕立て上げられたことから、一転して悪者になったという。
 現代でもお稲荷さんをむやみに拝むと、悪いキツネが取り憑くといわれて恐れられている。いわゆるキツネ憑きである。近所では家の改築で裏山のお稲荷さんを移築するのに、神主に頼んで入念に厄よけ祈願をしたそうだ。我が家でも20年ほど前に、家内の祖母が残した牛の御前稲荷のお札を処分した。その時もお坊さんに厄よけ祈願をしてもらったことがある。
 しかしキツネは瀟洒でスマート、都会的なセンスの良さを感じさせる。この素敵な足跡はどうだろう。



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No.138 パンドラの箱

幕末から明治時代の頃の世界の85%は西欧の植民地であった。
 1890年当時の世界は、わずか5%の国土の白人西欧諸国が広大なアジア、インド、アフリカなどの85%を植民地として支配していた。これまでに西欧の植民地支配を受けなかった国は185カ国のうち,わずかに日本とタイの2カ国だけだという。
 スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランスなどの西欧諸国は1500年頃から世界の海を渡って侵略を開始し、互いに激しく戦いながら世界の隅々まで植民地として征服していった。1800年過ぎからそこにアメリカ、ロシアが加わって、残された極東の中国と日本に狙いを定めていた。
 これまで日本が植民地にならなかったのは、豊臣秀吉、徳川家康が欧米の暴虐な正体を知って、キリスト教を禁じて結局鎖国をしたからである。また当時日本は世界一の鉄砲保有国であって、強大な武力を有していたから、それを彼らが恐れたからでもあった。
 その後日本は世界史に類のない大軍縮をして鉄砲や大砲を捨て、250年間におよぶ平和で豊かな江戸時代を過ごしたのだ。この間の西欧諸国は互いに凄惨な戦争をして、世界で植民地争奪戦をした。そして軍事技術を磨き武器を開発した。狡猾な植民地支配のノウハウも多く蓄積していった。
 そして1853年のペリー艦隊の来航をはじめとして、英国、フランス、ロシアの艦隊が相次いで開国を求めて日本に殺到した。日本は250年の穏やかで豊かな時代から、いきなり植民地支配の危機に立たされたのだ。国論は攘夷と開国に二分されて激しく混乱をした。攘夷を強行すれば圧倒的な軍事力で征服されただろう。開国をすれば卑屈な不平等条約や治外法権を押し付けられて、経済的に搾取されるであろう。結局日本は涙をのんで後者の道を選んだのだ。臥薪嘗胆であった。
 当時の周囲のアジア諸国の多くは長い間植民地支配されており、日本はその悲惨な状態とその根底に白人の傲慢な人種差別意識があるのも良く知っていた。西欧の軍事技術を必死で学んだのは、かれらに植民地支配されるのを防ぐためであった。国力に比して過剰な軍事力を持ったのもやむを得なかったのだ。
 しかし欧米の予想に反して急速に力をつけた日本は、欧米諸国の影響下から脱して独自の政治と外交を始めた。そして草狩り場となっていた中国で日本がかれらと衝突したのは必然であった。中国が彼らの手に落ちれば、次は日本が標的になるのは火を見るように明らかであったからである。
 日本はアジア諸国を植民地支配する意志はなかった。日本の政策は自国を欧米諸国から防衛して、アジア諸国民と共栄しようというものであった。日本は第一次大戦後の国際連盟の規約に、人種差別を廃止する決議を提案した。加盟国の圧倒的多数の支持を得たのだが、米英の反対で廃案になった。このとき日本は人種差別や植民地に反対する意思を世界に示したのだ。これは当時の圧倒的な白人優位の世界では驚くべき主張であったから、彼らに警戒され敵視された。その反面植民地の苦しみに喘いでいたアジア諸国は日本に期待したのだ。
 朝鮮と台湾、満州は合法的に日本の領土として組み入れたもので、そこでは全ての権利は日本人と同等に与えられた。教育の機会を与え、道路や港湾を整備し、行政機関にも彼らは採用された。むろん差別はあったが、それは搾取し収奪するだけの西欧諸国の植民地に比較すれば、雲泥の差であった。白人は現地人の教育の機会を奪い、奴隷のように使役し収奪して、神のように君臨していたのだ。
 それゆえ日本は300年近く続く白人の植民地支配を終わらせるべく、大東亜共栄圏を目指して欧米諸国と決死の戦いをしたのだ。
 日本は敗戦したが、この第二次世界大戦後にアジアやインド、アフリカ諸国は次々に独立をして、とうとう欧米諸国の植民地はすべて崩壊した。アジアの人々は神のごとくに君臨していた白人に、アジア人の日本が初めて打ち勝ったことに、驚喜して勇気づけられたのだ。日本は占領期にかれらを教育し、自国軍を作らせて軍事援助をした。さらに敗戦後も多くの日本将兵がアジア諸国の独立軍に身を投じて戦った。インドネシアではその数は4000人にも上るという。
 大東亜戦争は単なる侵略戦争ではない。大きな歴史の流れで見れば、それは西欧の植民地支配を打破する為のアジアの解放戦争であったのだ。

「なぜアメリカは、対日戦争をしかけたのか」加瀬英明、ヘンリー・S・ストークス共著 にこの大東和戦争のアジア解放に果たした日本の役割の大きさが書かれている。
 その中でヘンリー・S・ストークスは書いている。「ペリーは黒船艦隊を率いて日本にやってきたときに、うっかり知らずにパンドラの箱を開いてしまった。」そのために白人たちは全ての植民地を失ってしまったというのだ。「人類がこの地上に植民地が存在せず、人種平等の理想の世界を迎えることが出来たのは、日本が大東亜戦争に立ち上がった成果だった。」と記している。




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No.137 零戦の勇姿

 所沢航空記念館で第二次世界大戦で活躍した零戦が展示されている。完全な形でアメリカに捕獲されて整備された状態で保存され、今も空を飛べる世界唯一の零戦だと言う。初めて目にする零戦は小さかったが、良く整備されていた。海軍の零戦と陸軍の隼は、当時の世界最強の戦闘機でまさに無敵であったという。これが子供時代に夢中になった零戦の実物と思うと感慨深いものだった。
日本の航空機の開発の歴史を分かりやすく纏めた記念館の展示パネルも見た。そのパネルを見てあることに気付いた。
 日本で最初に飛行機が飛んだのは1910年(明治43年)である。ドイツ製のハンス・グラーデと仏製のアンリ・ファルマンである。その後何機かはライセンス生産され、さらに外人設計者を招聘して開発をしている。しかし、早々に日本人の手で設計開発を始め、短期間のうちに多くの飛行機を開発している。その結果優れた軍用機や民間機が数多く開発製造された。いずれも当時の世界の水準を超える性能を誇るものであった。輸入飛行機の日本初飛行から国産の世界最強の零戦まで、なんとわずかに33年間であった。
 帰宅して日本の軍艦の歴史も調べた。1905年(明治38年)の日本海海戦時の日本の連合艦隊主力艦は殆どがイギリス製であった。三笠、敷島、朝日、出雲、常磐、浅間、磐手の8艦がイギリス製、ほかにイタリア製2艦、ドイツ製とフランス製が2艦である。
 その後の1914年の第一次世界大戦時の黄海海戦時の連合艦隊では、主力9艦は国産でほかにイギリス製、アメリカ製が数艦という構成であった。
 そして太平洋戦争は全て国産の世界水準を超えた艦隊で戦ったのだ。その頂点に戦艦大和、武蔵がある。その頃はすでに航空戦が主力になって活躍の場はなかったが、世界最大最強の戦艦であったという。
 日本は全て輸入艦で戦った日露戦争から、わずかに30年ほどで世界最高水準の国産艦隊を作り上げて、太平洋戦争を戦ったのだ。

 この零戦と戦艦大和が生み出された歴史をしらべてみて、改めて驚きを隠せなかった。刀と槍と籠の江戸時代だった日本は、明治維新後は驚異的な勢いで西欧文明を学んで、国産の兵器を作り出して30年〜40年というわずかな期間で世界に肩を並べるほどになった。
 日本では江戸時代250年間は戦争がなかった。以前にも書いたがこれは世界の歴史上希有のことだという。ちなみに1603年から1843年の江戸時代の同時期に、西洋諸国で行われた主な戦争を調べてみた。
 30年戦争、イギリス革命、英オランダ戦争、北方戦争、スペイン承継戦争、ロシア・スエーデン戦争、スペイン承継戦争、オーストラリア承継戦争、英仏米の植民地戦争、アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争と枚挙に暇がない。しかもどれも凄惨な戦いであった。30年戦争後のドイツやヨーロッパの人口は1/3になってしまったという。
 この絶え間ない戦争によって西洋諸国は、優れた武器を生み出し戦争のノウハウを蓄えた。だからアジアやアメリカ大陸、アフリカの諸国はひとたまりもなく征服され、植民地にされて長期間虐げられた。
 幕末の日本も到底彼らの敵ではなかったが、しかし日本人はきわどく独立を保ち、明治以降その差を瞬く間に埋めて彼らを凌ぐほどになったのだ。
 日本では130年以上に及ぶ戦国時代があった。一般的には応仁の乱から徳川幕府成立までの期間を言う。この長い戦乱に終止符を打ったのは、種子島にもたらされた鉄砲であった。
 1543年に種子島に漂着したジャンク船からもたらされた2丁の鉄砲は、種子島時尭の手でコピーされた。その後改良されて堺、根来、近江で大量に生産された。戦国の旺盛な需要もあって急速に普及した。1575年の長篠の戦いで織田信長が3000丁の鉄砲で武田の騎馬軍団を壊滅させたのは、あまりにも有名である。
 この時代に日本にはどれほどの鉄砲があったのか? 一説によれば世界の鉄砲の半数以上を保持していたという。種子島からわずか30年である。
 しかも鉄砲を組織的に編成して効果的に用いたのは世界初めてであったという。そして信長は鉄甲船を作った。これも世界で最初で西欧のそれを300年も先んじていた。戦国時代の日本は世界一の軍事大国であったのだ。

 当時植民地を求めて日本に来た宣教師達は、本国に手紙を出した。日本という国は武力があり兵士は勇敢で知的であって、武力で制服するのは大変危険であり、中国や台湾を日本に先んじて征服した方が利益が多いと書いている。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、宣教師を送って布教しそれを切っ掛けにして相手国を征服する西欧の狡猾なやり方を良く知っていた。秀吉はキリシタン追放してキリスト教を禁じた。家康はさらに長崎、平戸以外での貿易を禁じていわゆる鎖国をした。そして特記すべきは鉄砲、大砲を放棄して刀と槍に戻ったのだ。この大軍縮は世界に類例はないという。
 以後250年間、日本人は豊かで穏やかな江戸時代を享受できた。江戸文明とも言うべき独特で魅惑的な元禄文化がそこに花開いた。歌舞伎、浮世絵、戯作、能、謡曲、長唄、端唄、落語、優美な和服や日本料理などの独特の文化が多く産まれた。いずれも宗教色がなく庶民が生み出したものだ。そこが西欧の文化と決定的に違っている。 幕末には70%以上の日本人が読み書きが出来た。これは驚異的なことであった。同時期、革命当時のフランスでは読み書きできる人はわずか5%程度でしかなかったという。
 私達は江戸時代は封建的で自由がなく暗い不幸な時代であったと意図的に洗脳されている。それは事実とは全く違っている。
 明治維新以後は文明開化と称して西欧文明の移入をして富国強兵をした。その結果は戦争に次ぐ戦争で庶民は大変な不幸に遭遇した。それを合理化するために、ことさらに江戸時代を悪く宣伝したのだ。西欧文明は優れているのか?同時代の西欧社会は絶え間のない戦争の連続であった。疫病や飢餓、略奪、強姦、魔女狩り、ホロコーストは日常的に行われていた。そしてヨーロッパで行き詰まると、蓄積した戦争のノウハウを用いてアジア、アメリカ、アフリカ諸国の大部分をその武力で占領して植民地にした。大航海時代というロマンチックな名称に騙されてはいけない。
 そして第二次大戦の敗戦後も同じ現象が起きた。戦前の日本を必要以上に貶めて、欧米社会の優位を私達に吹き込んだ。しかし彼らは他国を侵略して略奪するための武力で優位に立っているだけなのだ。それで多くの文明や民族を根こそぎ滅ぼした。西欧文明は単に野蛮なだけだと思う。優れた文明は武器を捨てて、共存共栄をして豊かな社会を目指す。それが文明国なのだ。
 先に書いた日本の航空機や軍艦、鉄砲の歴史を見ると良い。私達はやろうと思えばすぐに追いつけるのだ。戦乱のない良い時代を建設できて、その必要がなかっただけなのだ。私達の方が西欧諸国より遥かに文明的なのだと思う。
零戦の勇姿を見てそんなことを考えた。



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プロフィール

脇 昌彦

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