脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

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No.113 驚いたこと

曇天の秋川「曇天の秋川」F8


 6月20日頃、何処かで反原発のデモの呼びかけがないかと思って、インターネット検索をした。すると6月11日に日本の各地で大規模な反原発のデモがあったことを知った。近くでは新宿と阿佐ヶ谷でデモが行われていて、特に新宿では2万人の参加者による大規模なデモがあり、その様子を写真やユーチューブで見た。海外にも呼びかけて、いくつかの国でデモが行われたと云う。あの原発大国フランスでもあったという。
特に新宿では数千人の警察や公安も出動して、交通も一時混乱したという。40年程前の新宿駅大争乱を思い出した。
 私は新聞を毎日丹念に読んでいるし、ラジオも聞く。テレビは家内が自室で見ている。しかしこんな大規模なデモがあったことを全く知らなかった。
 周囲の知人にも聞いたのだが、小さな新聞記事を見たと云う人が一人だけで、殆どの人が知らないという。つまり大手マスコミが、この反原発デモを全く報道しなかったらしい。
 私は心底驚いた。いまだに半信半疑で、その後も人に会うと聞いている。つい最近も暑気払いの席で大学の友人にきいたが、やはり知らないという。つまりマスコミは殆どこの大規模なデモを報道しなかったのは確実らしい。
 芸能人のスキャンダルや野球やスポーツは連日大々的日報じている。高校野球も同じだ。それに中国の鉄道事故やリビアの政変や天竜川の川下りの事故、国会の権力闘争も連日報道している。番組表を見るとテレビは相変わらず、つまらぬ娯楽番組を垂れ流している。
 しかし、この重大な反原発のデモを殆ど報道しなかったのだ。世界史上最悪の原発事故で広島の原爆の160倍近くの放射能をまき散らし、日本は危機に瀕している。多くの市民がもう原発は止めてほしいと勇気をふるって意思表示をしたのだ。どうして報道しなかったのだろう。芸能人のスキャンダルや中国の新幹線事故より報道する価値が低いと判断したのだろうか? 
 最近一番驚いたのはこのことである。どうしてだろう?
まさかとは思うが、日本のマスコミは大本営発表を垂れ流した戦前のマスコミと同じ道を歩み始めたのか?


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No.112 故郷

大貫の町並 「故郷の町並」F4ペン画


 故郷の大貫の絵を見ていると、突然「ふるさとは遠きにありて思うもの」という室生犀星の詩の一節が口をついて出た。それ以外は忘れているので調べてみると、故郷への哀しい屈折した思いが唄われていた。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 室生犀星は金沢で私生児として生まれ、そこから寺の住職の内縁の妻のもとに養子に出され、生涯実の母を知らなかったと云う。それゆえ故郷を厭いながら、しかし断ち難かった望郷の念を唄っていたのだ。
 私はふるさとにこんな屈折した思いは抱いていない。おだやかな明るい内房で両親と五人の兄弟姉妹、祖母、そして幼なじみに囲まれて過ごしたキラキラした思い出が、胸一杯に残っている。
 高校2年の時に、父の転勤を機に東京に引っ越し、その後10年程は都内を転々とした。
 父が退職して母と二人暮らしになり、暫くして両親は大貫に戻ると言い出した。病気がちであったので心配をしたのだが、どうしても聞かなかった。二人共に生まれ故郷は広島なのだが、苦労をして子育てをした大貫が本当の故郷だったようだ。さいわいに家が残されていたので、手入れをして引っ越した。その一年後、父は私と息子達の目の前で心筋梗塞で亡くなった。更に一人暮らしになった母がその一年後に、心臓の発作であっけなくこの世を去った。念願のふるさとに戻ってわずか二年程であったが、穏やかな美しい海辺で近所の知人に囲まれて幸せであったと思う。

 私も故郷の思い出にどれだけ支えられ、励まされているか。両親を亡くしても、機会があると大貫を訪れる。同窓会や墓参り、法事、海水浴、スケッチなどである。
 それを思うと、故郷を失った福島の人たちの哀しさ、悔しさが胸を締め付ける。どんな理由があっても、原子力発電だけは絶対に認めるわけにはいかない。



     
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No.111 奥飛騨スケッチ

錫杖岳「錫杖岳」F8


 早い梅雨明けで連日の猛暑であったが、7月20日頃の台風で一転して涼しくなり、雨の多い日が半月近く続いた。あいかわらず極端な天気である。お盆前は駄目かと思ったが、ようやく回復したので奥飛騨に出かけた。
 松本から島々を抜けて梓川沿いに走る。道は次第に険しくなり、空気は冷えてくる。釜トンネルの直前から左折して奥飛騨に向かう。ここから先の安房峠は初めての道である。下に中部縦貫道の安房トンネルが開通しているが、旧道を通る予定であった。しかし工事中の交通整理員にガイドされて、気がつくとトンネルを走っていた。しまったと思ってもどうにもならず、永い単調なトンネルを飛騨の平湯温泉に抜けた。暫く迷ったが、そこから安房峠の旧道を松本方面に引き返した。
 高原の林は静かで美しく、樹間から奥飛騨の山並が見え隠れする。山は険しく奥深い。車も少なく路側の雑草が道路に溢れている。開け放った窓から冷気とともに森の香気が吹き込んで来て、生き返るようだ。ゆっくりと走り何度も路側に車を止めて、山の精気を深呼吸した。
 峠の茶屋は封鎖されて深閑としている。そこから正面に雪渓を残した奥穂高岳が一望に見え嬉しくなった。しかし山頂だけは雲の中だ。右手に険しい霞沢岳の山頂が覗いている。ここでP15の絵を描いた。
 何人かのバイク旅行の人が時折訪れて、話しかけてくる。関西の人が多い。そこから少し松本側に下ると路側から焼岳が仰げた。この周囲だけが雲もなく青空で、山頂の噴煙も見える。
 そこから又平湯に引き返したのだが、車の前を猿の群れがゆっくりと横切っていった。母親のお尻にしがみついている小猿が私をじっと見つめている。脅かさないようにゆっくり徐行して通り過ぎた。暫くすると、前方を黒い犬のようなものが、小走りで横切った。笹薮に駆け込んだのは小熊であった。
 安房トンネルが開通して、旧道は静かになり、草木も動物ものびのびと繁茂しているようだった。旧人類の私も嬉しい。
 新穂高温泉の安宿で一泊した。翌日は正面に聳える巨大な笠岳を描き始めたが、やはり山頂付近は雲の中であった。2時間程待ったが雲は取れず中途で描くのを止めた。10時頃になって、東の西穂高岳の雲が取れだした様子を見て、新穂高ロープウエイで標高2.156mの山頂駅に行った。西穂高岳、焼岳は全山眺めることが出来たが、奥穂高岳や槍ヶ岳、笠岳の山頂は最後迄雲に隠れていた。その日はロープウエイの中継乗換駅の白樺平で、西に見える錫杖岳を描いた。宿の背後に聳えている山で、標高2.200mもあると云う。描き終えるまで、独特の山頂は雲に隠れることはなかった。


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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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