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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.88 深作先生

葉山海岸「葉山海岸」F6


 先日の暖かい日に、スケッチの下見で葉山海岸へ出かけた。逗子駅から乗った葉山行きのバスは、海岸沿いの狭い道を家並を縫うように南に走って行く。屋根越しに左側には小高い丘が迫り、右側は明るい相模の海が輝いていた。葉山のバス停は御用邸の前にあった。御用邸内には常緑樹が茂り、その周囲は高い塀で囲まれている。その塀際を西に伝って行くと、松の古木からなる疎林越しに、明るい海が見えてきた。潮が匂ってきた。穏やかな陽射しの中に相模湾が輝き、遥かに伊豆の山々と箱根山が青く浮かんでいる。富士は霞んで、眼を凝らすと微かに見えた。右手に江の島が見える。海岸の少し南に草付きの岩からなる小さな岬があり、その先に岩礁が点在して、そこが白く波立っていた。そこを描き終えて海を眺めていると、大学のフランス語の先生であった深作先生を思い出した。

 飾らない気さくな面白い先生であった。フランス留学の帰路にカンボジヤのシアヌーク殿下の下で働き、帰国したばかりで非常勤講師になったという。工学部の大部分の生徒はドイツ語を選択したので、フランス語の教室は生徒がわずかに7人であった。授業はアットホームで話はいつも横道にそれて、留学中のアバンチュールの話などに花が咲いた。終わると飯田橋の先生のマンションに皆で繰り込み、麻雀をしたこともあった。当時私は混声合唱団で、他の一人は落語研究会に所属していた。先生は両方の発表会に足を運び「なかなか良かったよ」と励ましてくれた。
 7月の夏休み前に、先生の茅ヶ崎の自宅に海水浴に招かれ、皆で出かけた。松林の中の古色燦然とした和風の大きな家であった。「爺や」に頼んで櫓舟を出してもらい、それに乗ってすぐ沖合の平島に渡って遊んだ。その岩場の貝で私が足を切って、すぐに帰ることになったのだけれど。
 秋になって授業が終わると先生が私を呼び止めた。飯野ホールで「べ平連」の講演会がありそこで講演をするので、ボデーガードをしてもらえないか?という話であった。右翼が乱入する恐れがあったのだろう。
「先生、私はボクシングも空手もやったことがないし、役に立たないですよ」というと
「体が大きいから、側にいてくれるだけで良いよ。多分何もないさ。会場設営の手伝いもしてください。良い日当を払うからさ」
 当日先生は文化人類学者として、ベトナム、カンボジヤの講演をされた。その時に初めて先生が文化人類学者であり、「べ平連」の活動をしておられるのを知った。
 当時はベトナム戦争の末期で、アメリカ国内だけでなく海外でも反戦運動が激しくなっていた。日本の米軍基地からの脱走兵を「ベトナムに平和を!市民連合」いわゆる「べ平連」が匿っていた。
 講演後に寿司屋にお供をして御馳走になった。小田実と鶴見俊輔の両氏が一緒であった。その3氏がカウンターで寿司をつまんで話をしている後ろの座席で、わたしは寿司を食べながらそれを聞いていた。小田実と鶴見俊輔は当時「べ平連」で脚光を浴びており、私も新聞や月刊誌などでその著作も読んでいたので、内心興奮をしていた。
 日当は随分沢山頂いた。その頃私はタバコ銭にも不自由しており、良く貰いタバコをしていたので、先生は気を使ってくれたのだと思う。
 相模湾の海を見て深作光貞先生を思い出し、帰宅してインターネットで検索して先生の本を購入した。「海上の道、他界への道」という沖縄からインドシナ~マダガスカルの海洋文化圏の研究書である。先生は私と同じ海の人であったと思う。私のフランス語は不勉強で殆ど身に付かなかったが、「枯葉」と「フランス国歌」は多分今でも原語で歌える。深作先生が諦めずに何度も歌って、教えてくれたからだ。




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脇 昌彦

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