脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

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NO.87 宮本常一

山麓の松並木「山麓の松並木」F6

 3年程前だろうか?ブックオフで「忘れられた日本人」という本を手にして、題名に引かれて購入した。著者は宮本常一であったが、名前が「じょういち」か「つねいち」なのかも分からなかった。著名な民俗学者であった。
 私はいわゆる民俗学は民具や民家や道具などを収集し、比較検討するものと思っていたのだが(私が勝手に思っていた)全く違っていた。彼は日本中を歩き回って、そこに生活する普通の人たちの語る人生を数多く聞いて、それを書き留めたのだ。その本を読んで私は感動した。歴史に埋もれている多くの日本人の生活や人生を、実に生き生きと記録して余すことがなかった。「事実は小説より奇也」であった。中でも橋の下に住む八十歳の盲目の乞食の話「土佐源氏」は圧巻である。権力者や偉人、名をなした文人や学者ではなく、見捨てられた乞食の人生をこれほど詳細に聞き出して、書き留めたこと自体が驚きであった。自ら橋の下に通い詰めて聞き出したという。
 その他の話もすべて自身で調べて聞きいて、整理し書き留めるという徹底した現場主義で貫かれていた。しかも誰にでも分かるやさしい表現方法で詳細に書かれ、優れたノンフィクションノベルでもあった。これを偶然に購入したのは幸せであった。埋もれた市井の多くの庶民の人生が、偉大な政治家や天才たちの人生にもまして価値があることを、この本は教えてくれた。以後この本は3回も読んだろうか。
 つい先頃近くの図書館から電話があった。
「依頼された本が貸し出せますので、お知らせします。近日中においで下さい」はて?なんだっけ?すっかりわすれている。翌々日図書館に行って渡された本は「宮本常一が撮った昭和の情景」という毎日新聞社版の写真集であった。半年前に出版されて毎日新聞に紹介されたので、すぐに図書館に申し込んでいたのものが、やっと順番が回ってきたのだった。
 この数日、時間があればこの写真集を眺めている。懐かしくて切なくて、嬉しい毎日である。私がこれまで生きてきた時代の生活の様子と雰囲気が、多くの白黒写真の中に息づいていた。彼は日本中をくまなく歩いて10万枚もの写真に残していたのだ。すべてが何げないスナップ写真で、あの懐かしい昭和の日本がいきいきとそこに定着されていた。何のてらいも作為もない。「ああ、ここに本物の写真がある」と思った。そして巻末の松山巌氏の解説を読んで、嬉しくなった。その一部を以下に抜粋する。

「(宮本は)写真にしようとか写真を撮ろうとかいう気持ちがないんだよね。前から言っているんだけどわたしは写真にしたくない、作品にならないようにとやっているの。気持ちとしてはね。この人の写真はその線なんだな」と語るのは、森山と同じく日本の写真会を引っ張っている写真家、荒木経惟。森山も荒木も宮本が本質的にアマチュアカメラマンであったことに高い評価を与えている。こう紹介すると現在、日本を代表する写真家二人がアマチュアであることをめざしていることに、違和感を覚える人も多いだろう。しかしここに写真の本質が見える。写真は目の前にあるものをそのまま写す技術である。この技術が生まれ、写真を初めて見る人の衝撃は、今では考えられないほど大きかったはずである。しかしカメラが普及し、単にものを写すことから撮影者の表現行為となるにしたがい、かえって写真の衝撃力は薄まる。なぜなら写真を作品化すれば、写真は作家の恣意的な構図や色調によって、より古い絵画に近づき、ステレをタイプ化してしまう。写真は瞬間瞬間を撮るものではなく、あらかじめ決められた絵画的世界を写すようになる。その結果プロの写真家は、絵のような上手い写真を撮るという意識の転倒がおこる。

 勿論この意見に賛成なのだが、後段で「写真を作品化すれば、写真は作家の恣意的な構図や色調によって、より古い絵画に近づき、ステレオタイプ化してしまう」と書いているがここには多少異論がある。
 写真のない時代は絵画も一つの記録手段ではなかったのか。絵画も写真も原点は単なる記録で、コミュニケーションの手段であると思う。浮世絵を思い出すと良い。「東海道五十三次」「名所江戸百景」「役者絵」あるいはその他の多くの浮世絵は観光絵葉書やブロマイドの役割を担っていた。ここにはその時代の風景と庶民の生き生きとした生活が活写されている。これに作者の過度に恣意的な構図や色調を施せば、絵画でも同じ現象がおこる。写真も絵画もその点は変わらない。最近の公募展を見てみれば分かる。ここでは互いに競い合い、奇を衒って芸術作品風に仕上げたものが溢れている。しかも個性的な作品と称して自らの醜い野心を曝している。個性は人に無理に押し付けるものではないし、無条件に価値があるものとは思えない。見終わるとただ疲れるばかりである。だから私はこのところ絵画や写真の公募展の類いは、殆ど見に行かない。
 写真も絵画も単なる記録とコミュニケーションの手段として、虚心に描く。そして結果として良いものとそうでないものが産まれてくる。それを見た多くの人達が、やがてそれらを取捨選択していく。そういう過程をアマチュアリズムというのなら、大歓迎である。 宮本常一の写真はそんな素敵な写真である。
 私の絵は自分の生きた記録、単なる絵日記であって、それ以上の何者でもないといっそう思うこの頃である。


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No.86 神仏頼り

お茶の水「お茶の水」

 一昨年、悪いことが踵を接してやってきた。些細なことばかりであったが、気分は沈んでいた。気にするなと言い聞かせても駄目だった。しばらくクヨクヨ過ごしていると、「小さいことを気にするな。しかし世の中の全ては、小さいことで成り立っている」という誰か警句のを思い出した。そうだ、せめて気分だけでも変えようと、神頼みに行くことを思いたち、日本一ご利益があると勝手に決めた神田明神に厄除祈願に出かけた。お茶の水駅から北へ徒歩10分である。
 もちろん平将門を祭ってあるのは知っていたが、訪ねてみて意外なことを知った。正式な名称は神田神社であるという。初耳である。神社の由来を読むと神田神社が始めにあって、1309年に平将門が合祀されたと言う。
 平安中期に朝廷に反旗を翻して、関東の地に新皇として君臨した将門は、間もなく朝廷から派遣された藤原秀郷の軍勢に攻め滅ぼされた。その祟りを鎮めるために、将門を神田明神に祭ったという。天神様や明神様は悪霊による祟りを鎮めるために祭る。菅原道真と平将門はその双璧である。その後朝廷の権威に対抗して実力で武士の政権を目指した関東の豪族は、この先駆けとなって倒れた将門を尊崇してきた。太田道灌、北条氏綱、徳川家康などである。徳川時代の約270年間は特に手厚く庇護されて、江戸城の鬼門を守る守護神となっていたと言う。しかし徳川幕府が倒れて明治4年に明治天皇が皇居に遷座された時に、逆賊平将門を祭るのは恐れ多いと、祭神から外したのだという。その後昭和59年に、もう良いだろうと改めて再び神田神社に合祀したと言う。何と1000年前の因縁を今も引きずっていたのだった。
 昨年の秋にスケッチ指導に羽村市の阿蘇神社を訪れた。3度目である。多摩川沿いにこんもりとした巨樹に囲まれて、気持ちのよい場所にある。この神社の由来を読んでみたが、推古天皇の創建で平将門が社殿を造営し、その後藤原秀郷が940年に改築をして、土地を寄進したと書かれている。藤原秀郷が植えた樹齢1000年の椎の巨木が神木である。藤原秀郷は将門の怨霊を恐れてそれを鎮めようとしたのだろう。

 歴史はともかくとして、私は神田明神の厄除札を買い本殿に大枚のお賽銭をはずんで、しっかりと祈願して帰った。そのご利益でその後は平穏無事に過ごしている。
 ふと思えば神仏頼りの昔の人と私は、少しも変わっていないと気付いた。そう、些細な気分だって大事なのだ。



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脇 昌彦

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