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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

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No.76 昨日のようなこと



 私はこの所沢の三ヶ島に31年前に越してきた。古い歴史のある土地柄である。近所の人達は先祖代々ここに住んで、16代~17代目になると言う。越してきた当時は、古いしきたりや制度も多く残っていて、戸惑うことが多かった。それを上げれると、きりがないので省略するが、最も驚いたのは「来たり者は、5代経たないと仲間になれない」ということだった。
 来たり者というのは、新しく移り住んできたよそ者のことを言う、ここの方言である。これには家内共々正直驚いた。永久に仲間になれないと思った。しかし30年暮らしてみて、今はその話も宜なるかなと、多少は思うようになった。
 
 越してきた当時、上の息子は小学校1年生で下は幼稚園の年少であった。あれよあれよという間に30年が過ぎて、今は二人とも結婚して近くに住んでいる。4人の可愛い孫がいる。 この間その孫と遊んでいて、ふと思った。この孫が結婚して子供を産めば、私から見て4代目で、その子供は5代目なんだ。その僅か3倍ほどで15代~16代になると思いついた。そうか案外すぐなんだ、と妙に感心をした。
 ところで16代前はいつ頃になるのか?一世代20年として計算してみると、おおよそ320年ほど前になる。つまり西暦1690年頃だ。徳川幕府が出来て、90年ほど後の将軍綱吉の時代である。川越藩主柳沢吉保が、この所沢の三富開発をした頃になる。
 その三富の農家の方と最近知り合いになった。篤農家である。その方の言葉は三ヶ島の農家の方と違って、かなり聞き取りにくい。やはり16代前までの先祖の墓はここにあるが、その先はよく分からない、群馬県の新田荘の出らしいと言う。それを聞いてあ~そうかと思った。上州なまりが混じっているのだ。近くには甲府から来た人もいると言う。三富開発のために関東周辺の農民がここに移住してきて、住み着いたのだろう。
 もうひとつ、これは大分前のブログにも書いたことだ。秋川の山村に藁葺きの小さなな廃屋があった。そこの草むしりをしている一人の老人と話をした。その廃屋は老人が育った家だという。今は八王子で住み込みの管理人をしているが、ここへは時々見に来るだけだと言う。その藁葺きの家の中を見せてくれた。老人の先祖は武田の落武者で、親父の時代までは、代々ここで肩身の狭い思いで暮らしていたという。私はそんな大昔のことで、本当かなと思ったが、その老人の話し振りは真に迫っていた。
 武田勝頼が天目山で自刃したのが1582年だから、老人の先祖はその時甲府から重畳たる険しい山を越えて、この秋川の山中まで逃げてきて住み着いたのだろう。427年前のことで、おおよそ20代前の先祖だ。
 歴史は今も身近いところで、生きている。15代~20代前なんて案外すぐ近くなんだ、昨日のことなんだと思う。だから「来たり者は、5代経たないと仲間になれない」と言うのも、少し分かるとような気がするこのごろである。







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No.75 春琴抄

 父は若い頃から、しつこい眼病に悩まされていた。常に目薬を持っていたし、勤務先が変わると真っ先に職場近くで目医者を捜した。虹彩炎だという。瞳孔の調節をする虹彩が炎症を起こして、眼球に癒着して瞳孔の調節が出来なくなる。それを押さえるための目薬をいつも点眼していた。しかし白内障を併発して、晩年は視力が随分と落ちた。会社での仕事に差し支えるのでは?と聞かれて「事務員に書類を読ませて、判を押す。儂の仕事は本当のめくら判だ」と威張っていた。本も読めなくなって、その頃同居していた私の家内に、山岡荘八の「徳川家康」を毎日時間を決めて読ませていた。
 退職後、知人に勧められて、突然白内障の手術をすると言い出した。今は簡単で日帰りでも出来てしまうが、なにしろ30年前だから白内障の手術は簡単ではなかった。それに虹彩炎が治っていないので、いずれ白内障は再発する。医者である義理の兄は賛成出来ないという意見であった。しかし父は、日本一の眼科の先生の大丈夫という言葉にすがった。
 手術は順調に終わり、ある日に病院からの連絡を受けて、私は母を連れて病院に行った。
カーテンを閉めた薄暗い病室のベッドに、眼帯をかけて父は寝ていた。やがて先生がやってきて眼帯を外し、父に分厚い眼鏡をかけた。
「ゆっくり目を開けて見てください」
 母は父の顔を覗き込み
「お父さん、どう? 見える?」
 と聞いた。ゆっくりと目を開いた父は、感に堪えない大きな声で言った。
「お~、おまえ随分皺クチャになったな~!」
 母は赤い顔をして怒った。
「何を言ってるの!幾つだと思ってるの。あんただってそうでしょ!」
 母の怒りは、永い間収まらなかった。
 母の若い頃の写真を見ると、面長で色白の和服の似合う美人であった。父の中の母はずっと若いままだったのかも知れない。
 その後父は、数十年暮らした東京を離れて、内房の大貫にある自宅に母と帰った。それは長年の父の念願であった。潮の香りのする庭で草をむしり、知人と囲碁を打ち、本を読んで過ごしていた。
 その念願の生活も、一年足らずで終えることになってしまった。私の目の前で二度目の心筋梗塞の発作を起こして、あっけなくこの世を去って行った。
 手術後虹彩炎を押さえるための、副腎皮質ホルモンが投与されていた。心筋梗塞の既往症があったので心臓に負担がかかりそれが引き金になったらしい。
 手術後二年足らずであったが、視力が快復して何もかもが鮮やかで美しく見えると、父は嬉しそうに言っていた。反面見たくないものも、見えてしまったのだろう。
しかしそれで良かったと私は思う。「春琴抄」は小説の世界である。




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No.74 鎌倉

極楽寺山門「極楽寺山門」 F4


 自宅近くの郵便局のロビーには、訪れた人たちが寄付した本が書棚に置いてあり、自由に借りられる。数年前から、私はここへ訪れると良く本を借りる。
 つい最近山本周五郎の小説を、ここで借りて初めて読んだ。本は随分と読むけれど、これまで何故か山本周五郎は読む切っ掛けがなかった。
 読みやすく大変面白い。しかも深い含蓄があり、小説を読む楽しみを十分に堪能させてくれた。それ以後最近は、もっぱら山本周五郎を読みあさっている。この間近くのブックオフを巡り10冊ほど買い集めて、机の上に積み上げてある。幸いなことに多作らしく、当分楽しめると思うと幸せな気分だ。
 その中にあったエッセイ、対談、インタビュー、講演録をまとめたものがあり、それを読んだ。そこに彼の小説論が書かれている。詳細は読んでいただくしかないが、要約するとこうだ。
 彼は純文学に分類される人たちは、独りよがりなエリート意識に捕われて、多くの人たちに理解しやすく書く努力を懈怠しているのではないかと言う。そして芸術という言葉の中に「素人には分からなくても良いんだ」という優越感を読み取っており、それを嫌う。彼の言う良い作品とは、多くの人たちに支持され、しかも造詣の深い人々にも満足してもらえるものだという。こうした主張の一例を抜粋する。
 
 小説は普遍性の上に立つもので、教育や教養の差別なく、最大多数の読者を対象にしなければならない。即ち、いかに高くかつ深切なる主題でも、その構成や表現には、噛みくだいて入れやすく理解し易くする必要が、欠かせない付帯条件であるし、反面、そのために教養ある人士にあくびをされてもならないのである。もちろんこれは表現技術という末節の問題であるが「普遍性」という点を真剣に守ろうとする作者にとっては、これは相当に困難であり重要な問題だということができるとおもう。

 彼がここで指摘した文学の問題は、実は絵画にもそのまま当てはまる。最近の画壇は現代的、個性的、芸術的という言葉を隠れ蓑にして、仲間内だけで褒め合って普遍性を獲得する努力を怠っているものが多い。何かを表現すると言うことは、その作品を通じて他者の理解と共感を得たいと言うことなのだ。そのことこそが困難で重要なことなのだが、それがおざなりになっていると思う。その点で状況は酷似している。
 現代作家と称する人達は、屡々同時代の具象の作品を「古い臭い」と批判する。しかしその彼らは同時に、自らが所属する団体の創立会員や芸術院会員の大家を、まるで神のように崇めている。彼らの多くは具象作家である。その自己矛盾に気付いていない。
 私は芸術家、アーティストという言葉は好きではない。自分は特別なことをしている人という差別意識の臭いがする。
 鎌倉に久し振りに行った。円覚寺の境内の山門、寺院は誰が見てもほれぼれして見とれる程に美しい。その前に行った極楽寺の山門もそうだった。誰が作ったのか?彼らは署名もしない。
 その作者は自分の個性を、そこに表現しようなどと、微塵も思ってはいなかったろう。無理に表現した人の個性などは、醜いばかりであることを彼らは知っていたとおもう。


 
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No.73 梅雨礼賛

手賀沼梅雨入り(ブログ)「手賀沼梅雨入り」F8

 千葉の北部内陸部から茨城は、私のスケッチ空白地帯だ。これまでに描いたのは、私の水彩画廊にある「牛久沼」の一枚だけである。此のときは、今は亡い画友の松本亨氏と一緒であった。車で探しまわったが、どこも起伏が少なく茫洋としていて、絵にするのが難しい。ようやく、小高い小さな橋を見つけて、そこから描いた。河童が顔を出しそうなところであった。そこが牛久沼の何所なのか、今はもう全く分からない。その後もう一度、スケッチ会の案内で茨城の古河に行ったが、もちろん私は忙しくて描けなかった。
 数日前に梅雨入り宣言があったが、皮肉にも天気は好転した。予定はなかったので、前の晩に思い立って、空白地帯の手賀沼を描きに出かけた。大学の同窓のN君への新築祝いに、そこの絵を描いて贈呈する約束をしたからだ。五月に描くつもりであったが、生徒のスケッチ会、教室、自分のスケッチ旅行と多忙であったし、空いている日には運悪く雨が降ったので、延び延びになってとうとう梅雨入りを迎えてしまった。
 今回も結局橋の上から描くことになった。曇天である。飽和した暖かい空気が気持ちがよい。大きな鯉が、気持ち良さそうに回遊している。太宰治の「富士には月見草が良く似合う」ではないが、「沼には梅雨が良く似合う」と思う。
それから沼の東端でもう一枚描いた。足下で牛蛙が「グー、グー」と鳴き、涼しい風が葦原を渡ってきた。しかしそれは良い絵にはならなかった。




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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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