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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.52 匂い立つ

 数日前の朝はひどい冷え込みで、洗面所の蛇口から水が出ない。庭先には霜柱が立ち、その上を歩くとぐずぐずと崩れた。ここ数年寒さに弱くなり、この時期になるとあ~もう嫌だ!と時々ヒステリーが起きる。
「春よ来い、早く来い、歩き始めたミーちゃんが、赤い鼻緒のじょじょ履いて、おんもに出たいと待っている」
ストーブにしがみつきながら、思わず口をついて出た。
 今朝は数日前と打って変わって、陽射しの暖かい朝になった。近所の知り合いに届けるものがあって、歩いて出かけた。畑や雑木林の中の紅梅が幾つか咲き始めている。紅梅は毎年真っ先に開花する。早すぎるからよく雪や霜でやられてしまう。辺りは未だ冬枯れである。いくつかの角を曲がって訪問先の家の近くに来ると、良い香りが漂ってきた。何だろうと見回すと道路より一段高い庭に、淡い黄色の花が咲いている。用事を済まして奥さんに聞くと
「あれは鑞梅ですよ。いい匂いでしょ。年末から咲き始めて、まだまだ咲いているのよ。とても花持ちが良いの」
という。
あ~やっと春が来るか、と気持ちが少し弾んできた。帰りには少し風が出て、あの良い香りはもう匂わなかった。
 秋口は小手指ヶ原の西はずれにある砂川遺跡周辺には、花茗荷が群れ咲く。風のない朝は仄かで上品な香りが周囲に漂っている。花も奇麗だけれど、どちらかと言えばその香りに惹かれてそこに行く。
 例年初夏には白州町や伊那谷に出かけて、絵を描いた。大武川や天竜川沿いにはニセアカシヤの白い花房が群れて咲く。その林の中で絵を描いていると、上品な甘い香りにすっぽり包まれてしまう。今年もまた行きたいと思う。
 良い匂いはもちろんだけれど、嫌な臭いも不思議に感情を揺さぶる。嗅ぐといきなり体の中が反応する。突然大昔のたわいもない記憶を思い出して驚いたりする。
 何時だったか旅先でもうすっかりこの世に無いと思っていた、コンクリートの溝があるだけの男子トイレに入った。その臭気で50年も前の記憶が突如として甦った。スバル座という田舎の映画館である。傾斜した床に蓙を敷いてあり、そこに寝そべってノシイカを食べながら時代劇や西部劇を見ていた。トイレの臭気が何時も臭っていた。だからジョンウェインもボブホープもトイレとノシイカの臭いで思い出すのだった。
 私は40代以降鼻炎と喘息持ちになり長い間薬を飲んでいた。その副作用で嗅覚が馬鹿であった。家族に「汗臭い」とよく言われたが自分では臭わなかった。やがてリュウマチになり悪戦苦闘の末、酵素風呂に通って漸くそれを治した。すると嗅覚が見事に復活した。その時の感動は今も忘れない。
 早朝の靄の棚引く秩父山麓を散歩した。朝露や土や花や草の微妙な香りが押し寄せてきて、歩みを進めるごとに微妙に変化していく。あ~そうだ、そうだと、なんども鼻で深呼吸した。何十年も忘れていた匂いであった。何所からともなく朝餉の匂いもする。その時の民宿の朝食は何を食べても、良い香りで美味であった。珈琲もこんなに旨いものだったかと感動をした。大げさだけれど、生きていて良かったと思った。
 その時以来嗅覚は大事なものと思いを改めた。生命の本能に直結しているのかも知れない。フェロモンはもっと根源的だ。


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No.51 人物評価の難しさ

榛名山麓
「榛名山麓」 F8

 何年前だったろうか?春先にスケッチに出かけた。横川から国道を外れて妙義山を背中に北の山中に車で分け入った。幾つも野山を越え、やがて左に鼻曲り山を見ながら大きな山を登った。道は細くつづらに折れてやがて峠に着いた。車外に出ると春とはいえ風は冷い。北方を見ると榛名山塊が一望に見渡せた。暫く下ったところに畑と梅の木があって、そこにイーゼルを立てて描いたのがこの絵である。梅の木は放置されているのか小枝が込み入って茂り、そこに白い花が隠れるように咲いていた。
 描き終えこの畑の丘を北に向かって下った。やがて榛名山麓に流れている川の畔に着いた。気持ちのよい静かな広い河原が東西に広がっていた。周囲の山裾に民家が散在している。車を停めて土手に登ってあたりを眺めた。早春の河原には柔らかい春の風が揺らいでいる。遠くの橋の袂を見ると大きな白い幟が二本、青い空にはためいていた。その下に軽トラックがと停められていて、4~5人の村人が箒や熊手、バケツを手に掃除をしていた。暫くして私がそこへ行った時には村人は既に引き上げた後であった。幟の下には大きな石碑があって奇麗に洗われている。周囲も掃き清められていた。石碑には「偉人小栗上野介罪なくして、ここに斬らる」と刻まれていた。幟にも字が書かれていたが、なんと書いてあったか分からない。その碑に倉渕村と書いてあった。
 小栗上野介は幕末の勘定奉行であり多くの功績を残したが、ここで無実の罪で斬首されたという趣旨の説明も書かれていた。私は彼がなんでこんな山中で斬られたのか?と意外な思いであった。
しかしスケッチから帰ると、そのことはすっかり忘れてしまっていた。

 暫く後になって、柴田錬三郎の著書(なんと言う本だったか?)を読んでいるとそこに小栗上野介の幕末の活躍ぶりと人物評が書かれていた。小栗は頭脳明晰で開明的、しかも清廉な義侠心に富んだ見上げた人物であると書かれていた。慶喜に官軍と江戸で決戦することを進言していた。もしそうなったら戊辰戦争の勝敗は分からなかったともいう。しかし勝海舟と西郷隆盛の談判で江戸城の無血開城が決し、既に帰順して倉渕村に蟄居していた小栗は幕府の軍資金を隠匿したという罪で、官軍に捕らえられてここで斬首された経緯が書かれていた。倉渕村は小栗の領地だったのだ。小栗上野介の周辺は大変質素で、軍資金を隠匿したという罪は全くの濡れ衣だったという。柴田錬三郎は彼を大人物であったと評価する一方、勝海舟をひどくこき下ろしていた。幕臣であった勝が江戸城無血開城の功績で戦後官軍政府の手厚い庇護を受けながら、死んでしまった旧幕臣の批判を多く書き残したことをひどく怒っているのだった。勝海舟はその中で再三小栗上野介を小物であると批判しているという。柴田錬三郎は勝海舟こそ阿諛追従、裏切り、自己保身をもっぱらにした俗物であると書いていた。

 これを書くにあたって調べると、昭和4年に倉渕村の人たちは寄付を集めてあの小栗上野介の顕彰碑を建て、そして以後村人が持ち回りで碑を洗い周囲の草を刈り掃き清めているという。当時「偉人小栗上野介罪なくして、ここに斬らる」の内容が政府を慮る警察署の許可を得られず顕彰碑建立は頓挫したが、その後政府要人に働きかけて何とか実現したものだという。
 歴史上の人物評価は難しい。浅野内匠頭と吉良上野介もその良い例である。正反対の評価が沢山ある。
 勝海舟か小栗上野介か?私は行きがかりもあり小栗上野介になってしまう。判官贔屓の癖もあるかも知れない。
詳しくはホームページ「ようこそ倉渕村へ」を参照のこと。



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No.50 墓に持って行くもの

 あの時父は少し顔を赤らめて、目を伏せて沈んだ声で話し出した。
「畳に手をついて、娘を助けてくれとおいおい泣かれて参ったよ。しかしね。儂だって必死だったんだ」
 あれはもう三十年程前のことだと思う。父は退職して内房の大貫の海岸近くに母と二人で住んでいた。私がそこへ子供を連れて海水浴に行ったときなのかも知れない。
どうしてそんな話になったのか、私以外に誰か聞いていたのか、前後関係の記憶がない。私の記憶している内容が正しいかどうか、今はもう確かめるすべも持たない。

 中国戦線から帰国した父は、内房の大貫にある軍需工場に勤務していた。姉三人と長男の四人の子供を抱えて、その上母は私を身ごもっていた。戦況は次第に悪化して東京はB29の空襲に曝され始めていた。東京湾に面した軍需工場も父の実家のある瀬戸内の三原市に工場疎開をすることになって、父はその準備をしていた。そして一足早く大貫の家を売り払い、引っ越すことにした。その家は高円寺に住む知人に売却することになったと言う。大貫に越してくる前は高円寺に住んでいたと姉達から聞いていたから、その関係で父の方から声をかけて売り渡すことになったらしい。その知人には二人の年頃の娘がいたという。空襲を避けて田舎に疎開しようと思っていたので、父の話を喜んで受けたのだ。彼は急いで自宅を売却して金を工面した。しかし数日して終戦になった。何もかもがストップしたのだろう。それからすぐに知人は金を持って父を訪ねて来た。
「金を持ってきたので、約束どおり家を売って欲しい」
「そうしたいのですが、終戦で私の疎開工場もご破算になる。その時とは状況が違いすぎます。申し訳ないがその話はないことにしてください」
「しかし、そのつもりで既に高円寺の家は売ってしまった。貴方がこの家を売ってくれると約束したからそうしたんです」
「‥‥‥‥‥‥」
「私たち家族はもう住む家はないんだ」
「確かに約束はしました。しかし終戦になっては話は別です。私たち家族だって今はこの家しか住むところはありません。それに手付けは貰っていないし、契約書がある訳ではないのですから」
「東京には近いうちに米軍が進駐してくる。若い女は皆暴行されると噂している。頼むから娘を助けてくれ」
 その知人はその時畳みに両手をついておいおいと泣いた。
「‥‥‥‥‥‥‥申し訳ない。私も4人の子供を抱えて、家内は5人目を身ごもっている」

 父の話から類推すると、そんなやり取りがあったと思う。この話は30年間父の胸の中にしまってあって、その時初めて聞く話であった。その後相手のご家族はどうしたのか?父はそのことがよほど辛かったのだと思う。この話を墓場迄持って行こうと思っていたのかも知れない。何かの弾みであの時話したのだろう。少しは楽になったのだろうか?
 人は皆墓に持って行くしかない記憶を沢山持っている。もちろん私も例外ではない。


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No.49 木曾義仲の産湯

河川敷の秋
 「河川敷の秋」 F6

 10年程前にスケッチの場所を探して都幾川周辺に足を向けた。その川辺の杉木立の中にひっそりと佇んでいる鎌形神社を見つけた。入り口の石碑にこの神社の由来が書かれていて、征夷大将軍坂上田村麿の創建だと云う。古色燦然とした本殿の右脇には今も清水が湧き出ていて、そこに木曽義仲の産湯の清水と書いた石碑が有る。
 それにしても、木曽義仲がどうして武蔵嵐山で生まれたのか?木曽ではないのかと不思議に思って日本史をひも解いた。
 義仲の父は源義賢で源義朝の弟であった。源義賢は武蔵嵐山に館を構えて、この武蔵周辺から上州にかけて勢力を張っていた人望のある人だったらしい。義仲はここで1154年に生まれたという。その後義仲二歳のときに父義賢は兄義朝に殺害される。義賢を斬ったのは義朝の子供である義平、頼朝であった。この時に二歳の義仲は母に抱かれて木曽に落ち延び、その地で育ったという。
 ここから先は誰もが知る歴史の檜舞台である。源義朝が京に上り保元の乱を経て、平治の乱で平家に破れて殺され、その子頼朝は際どく助命されて伊豆に流されてしまう。以後平家の全盛時代を迎えて、数十年後に源氏の白旗を掲げて頼朝、義仲が平家追倒の兵をあげるということになる。その時木曽義仲は先陣を切って京に攻め上り平家を追うが、その後頼朝に攻め滅ぼされて、その子義高も頼朝の命でこの地で殺害されたと云う。11歳であった。
 結局無惨にも義賢、義仲、義高と三代が頼朝に殺されてしまったことになる。頼朝は異母弟源義経も殺してしまったのだった。この緑美しい静かな武蔵嵐山の片隅に、こんな残酷な歴史が秘められていたのだった。
 「河川敷の秋」はその武蔵嵐山の都幾川の河川敷を描いた作品である。源義賢の館の大蔵館跡もすぐ近くに有る。


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No.48 日原の梵天岩

日原の梵天岩
 「日原の梵天岩」 F8

 奥多摩の鍾乳洞で有名な日原には、これ迄4回行ったことがある。最初を除くと全て絵を描きに行った。鍾乳洞の入り口は日原の部落を過ぎてそこから少し山の中へ入った渓流沿いにある。2回目の時にそこに入ったが、あまり印象はない。私は閉所恐怖症なので早々に出てしまったのだった。その渓流を更に遡ると両側に大きな岩山が迫ってくる。その右側に高く尖塔のように聳えているのが梵天岩である。
 この岩を知るきっかけは、有楽町の朝日ギャラリーで開催していた藤江幾太郎先生の個展であった。白日会の委員をされていた藤江幾太郎先生とその絵をそこで初めて知った。藤江先生の絵は彫りが深く上質な香りのする良い風景画であった。その時に購入した画集に収録されていたのが「日原風景」で、そこに梵天岩が描かれていた。
 2回目に日原に行ったのはその風景を描くためであった。しかし結局そのときは描かずに帰った。描ける自信がなかったのだ。
 それから10年程経って3度目にそこに行って描いたのがこの「日原の梵天岩」である。天気予報では晴れであったが、現地はあいにく雨模様の曇天であった。岩の一部が崩れ落ちて、前回見た時とは形が変わっていた。梅雨空に突き上げている巨大な岩をこの狭い画面に描けるかと心配になったが、えい侭よと正面きって描いてみた。右遠景の峰とそれをよぎる木を描くと、岩の大きさが出てきた。左の鬱蒼たる森が難しかった。梅雨時の奥多摩の雰囲気が多少は描き出せたと思う。
 一番最近日原へ行ったのは私が主宰する「木曜スケッチ会」の例会で15人程の会員をバスで案内した時である。このとき会員達は、急斜面にある日原の部落を描いた。斜面は日原川に深く落ち込んでいて、そこから又鷹巣山の北側の山麓が競り上がっている。その斜面の途中に大きな岩山がある。稲村岩である。
 絵を勉強し始めて間もない頃の秋であった。突然雲取山に登ろうと思い立って、一人で出かけた。地図で調べると奥多摩駅(当時は氷川駅)からはさほど遠くないから日帰りで行けると思った。3号のスケッチブックと弁当と水筒をリュックに詰めて出かけた。六ツ石を越えて暫く行ったあたりで、ようやく私の計画が甘いことに気づいた。スケッチで時間を取られ、その上アップダウンのある長い尾根道は私の体力では厳しく、時間は大幅に遅れていた。雲取山の登山はとても無理であった。引き返そうかと思ったが、鷹巣山の頂上はもうすぐであったから、そこから北に向かって下り、日原の部落からバスで帰ることにした。
 しかし鷹巣山の頂上迄は予想以上に時間がかかった。漸く山頂にたどり着いた時、陽は既に西にかなり傾いていた。冷たい北風が強くなってきたので、ウインドウブレーカーを着て、標識を頼りに急いで北に向かって降りて行った。道は険しく、手間取っているうちに陽はすっかり落ちて、樹林の中は暗闇になってしまった。樹間から時々見える日原の家の明かりをわずかな頼りにして下るうちに、とうとう一寸先も見えない真っ暗闇になってしまった。そのころから道はいっそう急になって、手探り(足探り)で必死でそこを下る。何度も滑りそうになった。懐中電灯を持たずに出たことをどれだけ悔やんだことか。
日原のバス停に無事にたどり着いたのは、午後7時頃だった。最終バスに乗って漸く帰路についた。
 あの時暗闇の中で手探りで降りたのが、稲村岩であった。日原を訪れたのはその時が一番最初であった。
 今思い返すと大した経験もないのに、どうしていきなり無謀な雲取山の日帰り単独登山を思い立ったのか?その理由は思い出せない。
 あの頃の私は多くの悩みを抱えて苦しんでいた。それが原因だったのかも知れない。

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No.47 身近な風景

水路の初夏
 「水路の初夏」 F8

 最近は静物や人物は殆ど描かず、主として風景を描いている。それも野外で描く。しかし風景は何所でも絵に描ける訳ではない。絵になる風景と言うものがある。それを探す。しかし構図や構成が良く色彩が美しくても、作者が描く気にならないのではどうしようもない。作者の気持ちとその風景が響き合って初めて描く気になり、その結果良い絵が生まれる。絵になる風景とはそういう場所である。それ故誰にでも共通する良い場所と言うのは少ない。実は場所を選ぶところから作品の制作が始まっている。
 初夏は一年で一番美しい季節で、毎年安曇野や妙高高原、伊那谷に絵を描きに出かける。しかしこの頃は無理をして格別遠くに行く必要はない。見なれた身近な光景が、時折震える程美しく見えたりする季節なのだ。
 この絵を描いた日は気持ちのよい五月晴れであった。出し忘れて溜まってしまったゴミを、清掃工場に車で運んでいった。良くあることなので何時もの道を車で走っていた。小さな橋を渡る時に、車の窓からこの光景が一瞬垣間見えた。見慣れた風景が嘘のように美しかった。自宅に帰ると急いで絵の支度をして、自転車で4キロ程の道を走ってそこに駆け付けた。近くに車を止める場所がないのが分かっていたから。
 時間を置くと、狐に騙されたのではないか、と思う程色褪せてしまうことが多いが、この時は幸運にも大丈夫だった。橋のたもとにイーゼルを立ててこの絵を描いた。



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No.46 辛夷

 あまり古い話なので、何時頃のことか定かではない。内房の故郷大貫での話だ。小学2~3年の頃かもしれない。我が家の庭に大きな辛夷(こぶし)の木があり、白い花が満開であった。前の道をアメリカ人らしき老夫妻が歩いていた。門の近くで辛夷を見て肩をすくめた。
「オ~、チェリーブラッサム。ビューティフル!」
私は何故かその意味が分かったので、(桜じゃないよ)と言いたかったがどう言えば良いのか分からなかったので、ただニコニコしていた。坊主頭をなでられた記憶がある。
 その故郷の辛夷の実生を所沢の今の家に植えたのは30年程前だ。何時の間にか二階の屋根にとどく程の高さに育っている。選定をしなかったらその倍になっているだろうか?
 毎年白い花を枝一杯に咲かせて見事である、といいたいのだけれどそうはならない。つぼみが開きかけると、ヒヨドリがやってきてそれを半分以上食べてしまうからだ。ヒヨドリだって生活があると思い、そのままにしている。だから満開は見たことがない。ヒヨドリがあんなに美味しそうに食べるのだからと、花びらを茹でて食べてみた人がいた。苦くて食べられなかったそうだ。
 辛夷の葉は冬になると黄色に紅葉して、少しずつ庭に落ちる。それを掃き集めて庭の隅に積んでおく。
 今年も見事に黄色く紅葉したが、なかなか落葉せずに殆ど残っていた。或る朝起きて雨戸を開けると、昨晩は枝先一杯にあった葉が全て落葉して、枝が剥き出しになっている。風一つない穏やかな夜であった。枯葉は木の形そのままに下に積み重なっている。どうしたのだろう。不思議であった。
 冬の夜更けの青い月光の中で、辛夷の枯葉が人知れず音もなくはらはらと落葉する光景が目に浮かんでいた。寂寞として凛々しく高貴であった。こんなふうに終われればと、ふと思った。

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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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