脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このページのトップへ

No.32 チベット遥か

 私のチベットとの出合いは、今から三十年程になるかもしれない。狭山丘陵の小さな貸家に引っ越して来て、そこの向いの御主人から筑摩書房のノンフィクション全集の「チベット旅行記」河口慧海著を借りてからだと思う。
 明治31年ごろのチベットは鎖国されていて、一切の外国人の入国を拒絶していた。河口慧海は仏典を求めて六年間もの長期間単身で潜入して、命からがら貴重な仏典を持って帰国し、後にそれをこの「チベット旅行記」に著した。旅行記の白眉とも云われるこの魅力に私はたちまち虜になった。その後ラジオでシリーズで朗読されて、それも全て欠かすことなく聞いた。中でもヒマラヤの西奥に聳える聖なる山カイラスとその巡礼は印象的で感動した。
 前後は忘れたが川喜多二郎の「鳥葬の国,秘境チベット探検記」も読んだ。その中の死体を切り刻んで禿鷹に与える、鳥葬の写真に圧倒的な衝撃を受けた。
 一番最近はNHKTVで放映された聖地カイラス山巡礼者のインタビューであったと思う。そこで見たカイラス山は他を圧して純白の姿を紺碧の天空に際立たせていた。その姿はまさに世界の中心に端座する聖山に相応しい荘厳な姿であった。仏教世界の中心には須弥山が聳えているというが、その須弥山はカイラス山であるという。ヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教もカイラス山を聖地として崇めている。あの天空に屹立する荘厳な姿を目の当たりに見る人は、誰でも無条件に感動してひれ伏してしまうのかも知れない。
 標高4000m~5000mで一周50キロメートルにもなる険しいカイラス山麓を、五体投地で108回巡る途中であるという巡礼者は、僅かな身の回りの物と食料のツァンパという麦焦がしを入れた頭他袋を抱えて、油と土埃にまみれ日焼けした赤銅色の顔でインタビュウーに答えていた。
「巡礼しながらこの聖地で死ぬのならば本望だ」
 と静かな充足した屈託のない笑みを浮かべて答えていた。
 その姿を見て、衣食住の全てに遥かに豊かに恵まれて、その上老後の数十年の間の生活を支えるにたる貯えを持って尚、不安に駆られてあくせくとしている人々との、あまりの違いに酷く衝撃を受けた。
 どんなに貯えても保険をかけても、堅い約束を取り付けても、世の中や人の命は儚く変転流転してしまうのだから、所詮一時の気休めにしかならない。その気休めの為に、最も大切にすべき今現在の貴重な時を過度に犠牲にするのは愚かしい。明日の命さえも知れない身と思い定めて、今の瞬間に専心して今日一日を悔いなく生きよと、カイラス山の巡礼はそう語りかけているように私は思った。
 7年程前に敦煌莫嵩窟の壮大な仏教遺跡をスケッチしながら巡った。私は帰国後に、もう一度ゆっくりそこを訪ねて見たいと思った。そして今度はカシュガルからパミール高原を越えてインドの仏教遺跡を巡り、そしてチベット迄足を伸ばしてあの荘厳な聖なる山カイラスをこの目で見ようと思い付いた。
 そしてその準備を始めた。まずは弱ってしまった足腰を鍛えなければならない。本や水筒を入れて重くしたリュックを背負って、一周15キロの狭山湖を歩くことを手始めにして、それで十分に鍛えたら、次は所沢から丹波を経由して塩山迄歩く。その後仲間と北アルプス登山をする計画だった。
 しかしその計画はスタートして1ヶ月半程で頓挫した。狭山湖を12~3周ほどすると、私の両膝が腫れて痛み出し、両手も痛んで来た。暫くしてそれがリュウマチであることが分かったからだ。その為に結局私のチベット旅行は諦めざるを得なくなった。
チベットとカイラス山は遥かな彼方に霞んでしまっている。


スポンサーサイト
このページのトップへ

No.31 生きている歴史

 父は小学校の頃から囲碁を教えてくれて、工場から自転車で帰るとよく相手をしてくれた。「わしに勝ったら10円やるぞ」と賭け碁をして、負けると嬉しそうに10円玉をくれた。あるとき工場から帰ってズボンを脱いでそれを衣紋掛けに吊るすと、ポケットの小銭が座敷きにバラバラと音を立てて落ちて来た。弟と私はその小銭に飛びついて拾ったが、父も取られまいとして大声を出して拾い集めた。それ以後、父は着替えの度に小銭を撒いて、毎回私達と大騒ぎで小銭の争奪戦をやった。父はわざと小銭をポケットに入れて帰って来たらしい。
 父は猫嫌いであった。姉たちは猫を飼いたくて、何度も父に頼んだけれど駄目だった。そのうちに一計を巡らした。父は何故か「格安だよ」とか「これは内緒ですが、買い得ですよ」という台詞に弱かった。貧乏のせいかも知れない。
「お父ちゃん、友だちの家のペルシャ猫が子供を生んで、あげるって云うんだけど。血統書付きの高い猫なのよ」と姉に云われて、「それなら、飼うか!」と云うことになった。
暫くして目が明いたばかりの可愛い子猫を、姉が貰って来た。ペルシャネコの間を省略して、ペコという名前にした。ペコは大きくなると次第に毛並みがはっきりして、赤トラの日本猫に変身した。その後ペコは皆に可愛がられて天寿を全うした。
 私は小学校から大学卒業に至る迄、父から「勉強をしなさい」と云われたことがない。小学校当時は9人家族で給料も遅配続きだったから生活に追われて、それどころではなかったのかも知れない。私の上3人の姉は、良く茶の間のお膳で勉強をしていたが、「目の前で辛気くさい。勉強するな」と父に怒られたらしい。もちろん私は勉強は全くしなかったからそれで叱られたことはないが、他にもお説教されたり怒られた記憶はほとんどない。父には格別可愛がってもらった感じもなかったし、だからといって放任されていた感じもしない。
勿論私も人並みに受験のために自ら進んで勉強をしたし、進学や就職の進路も自分で考えて選択したと云う気がする。囲碁は一緒に遊んでいる内に自然に上達したように思う。しかし良く思い返してみると、父親の助言や援助を随分と受けていたような気がする。そのやり方が父親の流儀だったのだろうと思う。

 私はその後大学に入ったが、そこで知り合った友人の家に、良く遊びに行った。何時だったか私がいる時に友人の父親が帰宅したことがあった。それまでのくつろいだ雰囲気は消えて、友人の母親と妹は急いで玄関に出迎えに出て、玄関にひざまずいて「お帰りなさい」と云ってからコートと鞄を受け取った。友人も勿論出迎えていた。その張り詰めた様子に私は驚いた。
 あるときその友人を交えた同級生3人で丹沢縦走を計画した。テントを持参して山中で一泊する計画であった。しかし直前になって友人が参加を取り止めた。理由を聞いても要領を得ない。結局残った二人で行ったのだけれど、道に迷った上に雨に降られて、散々な目にあった。その後本人から聞いたのだが、父親から「危険だから止めなさい」と一言云われたので、行けなくなったと云う。
 何処の家も父親は自分の父親と同じなんだろうと無意識に思っていたから、あまりの違いに本当に驚いた。友人の家は格式の高い家柄であったらしく、父親は高級官僚であった。友人の父は尊敬され畏怖されて一家の厳然とした支柱として存在していた。私は在学中は勿論卒業してからも、その友人と御家族に大変お世話になった。つい最近その友人と同窓会で再会して、御尊父が3年程前に他界されたことを知った。覚悟の上で病院での延命処置を玩として断り、自宅に帰って多くの家族に囲まれて、泰然と往生されたという。

 私も友人も互いの父親の気風を、良く引き継いでいるような気がする。さらに云えば祖父や曾祖父の代からの家風を引き継いでいるのかも知れない。
 私の父の実家は広島の三原の造り酒屋であった。母は同じ広島の尾道の呉服屋の娘だった。どちらも瀬戸内海の商都として栄えた町の商人の家の出である。だから父や母の気風は商人の気風なのだと思う。権威や地位、肩書きにこだわらない。ストイックなところはなく、実利的で開放的であった。それはそのまま私の気風になっている。私の5人の兄弟も良く似ている。私は自分の気風は自分が自ら学び選択して獲得した人生観によるものと、思っていたが違っていた。私の体の中には、家族の歴史が積み重なっている。




 
このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



<br /><BGSOUND SRC="http://blog-imgs-24.fc2.com/s/e/i/seifu/koi.mid" width=80 height=20 autostart=true repeat=true loop=true><br />
※このブログ内の文章及び画像の無断転載を禁止いたします。 

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。