FC2ブログ

脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.247 公園の絵

航空公園・冬
「航空公園・冬」 水彩F6



 絵を描くようになると、多くの人は初めは公園の絵を描くことが多い。
私が初めて野外スケッチに出かけた公園は小金井公園だった。勉強を始めて6ヶ月ほどは室内デッサンと静物画を描いていたが、ある時先生が風景画を描く宿題を出した。それで小金井公園の芝と木立を描いた。それを褒められて嬉しかったのをよく覚えている。
それから、仲間と野外スケッチを時々描きに出かけた。多くは公園だった。当時から多くの絵描きが集まる石神井公園に出かけた。三宝寺池の周囲はたくさんイーゼルが並んでいて、時折先生が指導に回っている。批評をされたりする。
ある時、近くの古びた御茶屋の女将さんが絵を覗いて話しかけてきた。
「あんた達の絵は素人だからね。見ちゃいられないよ」という。それは本当のことだから、黙って聞いていた。
「水野先生の絵は素晴らしいよ!よく描きにきていたんだ」
という。あいにく聞き覚えがないので、ああそうですか、というしかなかった。

 井の頭公園は石神井公園ほど絵描きは多くないが、観光客が多く賑やかだった。善福寺公園、野川公園、昭和記念公園、森林公園、殿ヶ野公園、砧公園などにも足を運んだ。
だんだん上達をすると、伊那谷や安曇野、伊豆、箱根、谷川岳などの遠隔地にスケッチに出かけるようになったから、公園ではほとんど描かなった。
しかし数十年経った今はまた昔のように公園で描くことが多くなった。近くて便利で生徒の指導にちょうどいいし、私自身も気力体力に限界を感じだしたからだ。
 絵にしようと思えばどこでも絵になる。公園も季節ごとに画材は豊富だ。所沢に住んでいるので、航空公園は一番よく描くことになる。

釣りは「鮒に始まって鮒で終わる」という。絵は「公園に始まって公園で終わる」のかもしれない。




スポンサーサイト
このページのトップへ

No.246 「青息」出版の案内

「青息」「青息」

「青息」

 企画校正  株式会社ヴィサージュ      
 編集協力  脇昌彦              
 挿絵    脇昌彦
 装幀    溝上なおこ

 取材協力  栗林英子
       栗林三郎
       林俊夫
       坂川國明

 発行所 青山ライフ出版(株)
 東京都港区芝5-13-11 第2双葉ビル401
 TEL:03-6683-8252
 ¥1.800円 (税抜き)

この作品は栗林英一氏が書き残した多くの書簡、作品、資料をもとに、脇昌彦が書き下ろしたものです。


 私がこの本を執筆することになった経緯は、この本の<あとがき>に分かりやすくまとめてあるので以下に転載した。挿絵15枚を含めて360枚に及ぶ労作であった。書き上げるのに6ヶ月を要した
興味ある方は、是非読んで感想を聞かせていただければ嬉しく思います。
すでに全国配本されていますので、お近くの本屋で取り寄せてもらえます。近くの方は私宛に申し込んでくださっても結構です。


<あとがき>
 私がこの本を書くことを青山ライフ出版社から依頼されたのは昨年2月のことだった。よく考えもせずに引き受けたのだけれど、栗林英一氏のことは何も知らなかった。17年前に故人となっていた人の評伝を書くという。引き受けてから少々無鉄砲だったかと思った。
 最初の打ち合わせの時に、この出版を企画した(株)ビサージュの坂川國明氏から、栗林氏の残した膨大な書簡と収集した資料を見せていただき、そして栗林英一氏の人柄とその過酷な人生の一端をお聞きした。
 その500通にも親ぶ書簡が私の机の上に積み上げられて、それを毎日読むことから始めた。
幸いに時系列に仕分けがしてあって、差し出した人の名前も分類してあった。
 その書簡には栗林英一氏の幼少の頃から最晩年に至るまでの、折々の思い出や苦悩や出来事や、多くの読書をした感想や、彼の哲学や世の中の様々な事件や、映画の感想に至るまでの膨大なことが書き留められていた。差し出す相手やその手紙を書いた時期、本人の体調や気分で七色に変わる文章だった。そしてあるものは比較的まとまって書かれているかと思えば、同じ内容のことが断片的にあちこちの手紙に食い違って書かれていることもあった。特に昔のことは、記憶が曖昧になっているのだろう。
 最初の1ヶ月はこの全ての書簡を読むことに集中をした。繰り返し5回は読んだだろうか。重い内容のことが多く、夜に読むと寝付けなくなるので、それからは昼間にした。
 一月ほど経って、私の頭の中にようやく栗林英一氏の人生がまとまったイメージとして立ち上がってきた。氏は大きな存在として私の前にあった。研ぎ澄まされた感性の持ち主で、稀に見る知性と能力を持った人であった。そして、私は困難であってもこの作品を書き上げてみたいと思うようになった。
 そして私が最も興味を持ったのは、栗林氏が誕生したのは大正12年(1923年)で、日本という国家が大正モダニズム、デモクラシーと呼ばれた小春日和の時代の終焉を迎えた頃であって、ここからあの暗い昭和恐慌を経て戦争への道へ転がり落ちる入り口にあったことだった。
 栗林英一の青春は満州渡航、徴兵、占守島の戦い、シベリヤ抑留と日本の戦争とまさにぴったりと同期していた。そして復員後も戦後の高度成長時代の中で翻弄されながら、成功をして豊かで繁栄したのも、日本社会のその後と見事に同期していた。
 高度成長期が終焉して社会が安定期に入り、様々な問題を抱え始めた頃に、彼も癌に侵されて深い苦悩の中に入っていった。
 この彼の人生の軌跡は、日本という国家の戦争と敗戦後の復興の歴史の中にあった。それが私の強い興味を引いたのだった。
 彼は幼少期から、プロレタリア文学やアナーキストの書物を多く読んでおり、徴兵されて戦争に翻弄され生死の境をさまよいながらも、その批判的精神を失わず、反抗し抵抗をして生き通してきた。 
 戦後不治の病に侵されながら、戦争という怪物の正体をじっと見つめ、それを見極めようと死ぬまで努力をし続けた人だった。その頃までには、多くの反戦、反権力、反軍を目指したプロレタリヤ、アナーキスト達はほとんど転向して滅びてしまっていた。彼はまさに最後のアナーキストであった。
 彼の晩年はその戦争を総括する「三人の兵士の物語」という作品を書くために、癌と戦いながら不屈の意志で、多くの戦史を調査し、戦争体験者の取材を最晩年まで繰り返していた。そして、膨大な書簡と資料を残して、その念願の作品を一行も執筆せずに亡くなった。
 栗林英一氏が残した書簡とその生きてきた軌跡を時系列にまとめて書き上げてみたが、その中には彼が書きたくて果たせなかった日本の戦争のいかがわしい真相が、見事に表現できていることを知った。彼は自分の人生と身をもって、あのいかがわしく残酷でいやらしい日本の戦争を総括して、告発したのだった。
 なにも知らないままにこの本の執筆を引き受けたが、この本のテーマは私の最近の問題意識とも密接に関わるもので、大変幸せなことであった。そして、栗林英一氏がこの作品を読んで草葉の下で喜んでくれるのならば、それ以上に喜ばしいことだと思っている。

 奥様の栗林英子様、ご子息の栗林三郎様、(株)ビサージュの坂川國明様には、なんどもの取材に協力してもらい多くのアドバイスをいただきました。ここに厚く御礼を申し上げます。
 
                             脇昌彦
                     
                                                 


このページのトップへ

No.245 佐久の鯉太郎

浅間山・秋晴れ
「浅間山・秋晴れ」 水彩P15



 浅間山山麓の御代田町に関連会社があり、入社以来よく訪れたので浅間山は馴染み深い。訪れるたびに様々に表情を変えて聳えていた。小爆発して噴煙が立ち上がった姿を会議室の窓から眺めていたこともあった。いつも泊まるのは御代田町の小さな木造の旅館でそこが出張者の常宿であった。その玄関ロビーに20号ほどの大きさの浅間山の油絵がかけてあった。良い絵だった。
 関連会社の招待で佐久の鯉料理をご馳走になった。養殖池を見下ろす日当たりの良い座敷で、鯉の洗い、甘露煮、鯉こくに舌鼓を打った。鯉を初めて食べて、こんなに美味しいものだと知った。この地方では昔から池で養殖してタンパク源として食べるという。
 その後頻繁に出張をしてきたが、その旅館の夕食に時々鯉の洗いと鯉こくが出ることがあった。そんなときは大概は昼間に結婚式や祝い事がある時だった。祝い事のある日に鯉料理を食べるという。

 それ以後長い間、鯉を食べる機会はなかった。東京では鯉は売っていないし、鯉料理店など見かけたこともない。
10年ほどして、大月の知人のお宅にお邪魔した帰りに、お土産に生きた鯉を一匹頂いて帰った。養殖池で大きな奴を購入して新聞紙に包んで私の車のトランクに放り込んだ。
「鯉は丈夫ですから平気です。捌くときは布巾で目隠しをしてください。そうすれば暴れませんよ」
という。家に帰ると早速鯉料理に取り掛かった。まな板の上の鯉が大暴れをして、台所中を跳ね回った。必死で取り押さえて目隠しをし、それを切れない出刃包丁でさばいたけれど、それはそれは大仕事でなんとかさばき終えると疲れて果てた。あの美味しかった佐久の鯉料理を食べたい一心だった。
その鯉の刺身を氷水で冷やし酢味噌で食べると、歯ごたえがあってコクがあり実に美味しい。鯉こくも美味しく頂いた。苦労の甲斐があったと思った。

 そんな経験から、浅間山を見ると佐久の鯉太郎を思い出し、口の中につばきが湧いてくる。そしてあの旅館の玄関の浅間山の絵を思い出す。
 絵を描くようになってから、何度も浅間山を描きに行くようになった。ところがなかなか良いアングルが見つからない。ずいぶん経ってからようやく見つけたのがこの絵の場所だった。ここからは浅間山は山裾から頂上まで綺麗な形で見渡せた。全景も変化に富んでいて絵になる。木曜スケッチ会でも一度大勢で描きにきた。

この前、歴史研究会で安曇野に出かけた帰りに、佐久の鯉料理を食べた。鯉料理は40年ぶりのことだったろうか。




このページのトップへ

No244 槻川の春

都幾川の春
「槻川の春」 水彩P15



 毎年1月は生徒の展覧会で慌ただしい上に、寒さが厳しいので絵を描きに出かけることはほとんどない。展覧会も終わり2月になると寒さもがようやく和らいで、紅梅がほころびもうすぐ白梅が咲く。菜の花も芳しい香りを振りまくだろう。ようやく春という実感が湧いてくる。旧暦の正月は新春という名にふさわしい。

 3月になるとそこもかしこも花に埋もれて、一年で一番美しい季節になる。この頃になるとスケッチブックを抱えてあちこちに描きに出かける。
 そうだ佃島の丸久の佃煮を注文しよう。これをおにぎりの具にするのがいちばんのお気に入りだ。好きなものは小海老とアサリ。菜の花やレンギョウの花に囲まれてこのおにぎりを食べる。

 この絵は5年ほど前に描いた。あまり出来は良くないけれど静かで美しい風景は脳裏に焼き付いている。今年も行ってみよう。佃島の丸久のおにぎりを持って。


春の小川   高野辰之作詞

春の小川は さらさら行くよ
岸のすみれや れんげの花に
すがたやさしく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやきながら

春の小川は さらさら行くよ
えびやめだかや 小ぶなのむれに
今日も一日 ひなたでおよぎ
遊べ遊べと ささやきながら





 
このページのトップへ

No. 243 芋づる式の記憶

麦萌える頃
「麦萌える頃」 水彩F6



 50年〜60年前は大昔である。当時の記憶は皆忘れている。しかし記憶というやつは不思議なもので、何かのきっかけで一つのことを思い出すと、その周辺のことが少しずつ思い出してくる。それをたぐっていくと、その奥の記憶が蘇ってくる。やがて芋づる式に次から次に思い出す。半年もそんなことをしていると驚くほどだ。
 記憶のそのありように気付いたのは、小説「座礁船」を書いた時だった。一つの記憶を反芻しているうちに65年もの大昔の記憶が生き生きと蘇る。そして、不思議に些細な取るに足らないことが多い。でもその些細なことこそが大切なのだ。大昔の記憶も人は決して忘れることはないらしい。
 サントリー・オールドをグラスに注ぐ映像とコクコクという音が響いて、「時は過ぎ去るものではない、積み重なるのだ」というTVコマーシャルがあった。それを聞いて、そうだ!記憶は忘れるのではなく体の中に年輪のように積み重なっているんだと気がついた。子供の頃の記憶は年輪の中心にあるのだろう。その記憶の年輪がその人の人生であり個性を形作っているらしい。だから、記憶喪失は大変なのだ。これは前にもこのブログに書いた記憶がある。
 昔の記憶を刺激して思い出すのは人生を豊かにする。たくさんの記憶を何度もなんども牛のように反芻して楽しもう。

 最近、その記憶を一生懸命に刺激してくれる人が電話をしてきた。県立千葉工業高校の機械科の同級の菅沢君である。
10年ほど前に彼は苦労に苦労を重ねて、同級生の足跡を訪ねて名簿を作り、手紙を出して電話をして、50年ぶりの同窓会を開いてくれた。その時に彼からの電話を受けて「俺だよ、同窓の菅沢だよ!」と言われて私はドギマギするばかりであった。同窓会の当日会場に入ると、まるで浦島太郎であった。しかし、記憶の芋づる式原理で帰る頃にはすっかり皆んなの顔を思い出して、愉快に飲んでいたものだった。
 私の家は内房線の大貫駅からすぐ近くだった。早朝6時15分発のC51の機関車に乗って千葉駅まで行き、そこから総武線に乗り換えて津田沼駅の学校に2時間かけて通った。私は機械科であったがもう一人電気科の須藤君が一緒だった。木のボックス席に二人で座って、毎朝一緒に宿題や予習をした。夏は窓を開けている。トンネルに入ると真っ黒な石炭の匂いのする煙がなだれ込んできて、慌てて窓を閉めた。その煙の匂いが蘇ってきた。千葉駅近くになると、通勤客で満員になり、入り口の手すりにぶら下がっている人が時折落ちてけが人が出た。
 一年の時の担任は数学の教師だった。試験の後に全員を集めてテスト結果の講評をした。
「落第点が5人いる。しっかりやらないとダメだ」
一人一人名前を呼ばれて担任の前に呼び出された。私もその一人だった。
「頭を前に出せ!」
と言われて拳骨でゴツンと打たれた。
 小学校や中学校ではテスト期間中にも、遊びに夢中で大した勉強もせずに過ごしていた。それでも成績は良かった。しかし高校ではそうは問屋がおろさなかった。拳骨のショックでその後は一生懸命に勉強をした。その担任のおかげであったと思う。
 これを書いていて、今もう一つ思い出したことがある。電気科か化学科の同窓の誰かとの話だ。その頃から現代詩を読み始めていたが、その関係で知り合った誰かだと思う。同人誌の話で誘われたような記憶があるけれど、それも定かではない。なんだか彼が詩を口ずさんでいたような記憶がある。「ひとひ、一日」というような? それっきりで彼とは無縁になった。卒業間近のことだったのか? それもすごくあやふやである。誰だったんだろう。
 その後大学の機械工学科に入学して、現代詩にのめり込んだ。文学部の女の子の宿題をやってあげたこともある。現代詩の解釈だった。
 同級生に私と同じように文学にのめり込んでいたK君がいた。彼からも二人で同人誌をやらないかと誘われた。迷ったけれど誘いに乗らなかった。単位不足で進級が危なくなっていたし、お金がなかったからだ。K君は大学の懸賞論文で大賞を受賞した。現代作家の作品評論だったような気がするが、あまり確かな記憶ではない。何度か喫茶店で文学論を交わしたことがあった。私が集めた現代詩の様々な初版本や評論集や詩集を数十冊も彼に貸したが結局それは一冊も帰ってこなかった。
 私は工業高校に行き大学の工学部を卒業して、そして就職したのは時計会社で生産技術や設計開発をしていた。その間いつも詩や文学に関心を抱き続けていた。思えば変な人生だった。
 こんなことを思い出したのも、千葉工業高校の同窓会幹事の菅沢君のおかげである。







このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



<br /><BGSOUND SRC="http://blog-imgs-24.fc2.com/s/e/i/seifu/koi.mid" width=80 height=20 autostart=true repeat=true loop=true><br />
※このブログ内の文章及び画像の無断転載を禁止いたします。 

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する