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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No.256 井上井月(4)

三崎のトロール船
                「三崎のトロール船」 水彩P15


 幕末の風雲急な時に井月は「捨てるべきものは弓矢なりけり、、、」と脱藩して仏門に入った。この時すでに40歳過ぎであった。長岡藩では家老になった河井継之助が実権を握って兵制の改革と最新型兵器の購入を急いで、来るべき決戦に備えていた時であった。河井継之助は井月より5歳ほど年下であった。そして数年後の北越戦争で長岡藩は壊滅した。藩の全力を挙げて決死の戦いに挑んだが、長岡城は落城し城下町は焼け落ちた。多くの藩士は討ち死にし、生き残ったものも官軍から厳しく追及された。
 この時、井上井月は雲水として他国を行脚していたのだ。妻子や親族はどうしたのか?生き残っていたのか。何れにしても井月の戻るべき故郷は無くなった。長岡藩士ならば、なおさら戻れなかっただろう。
 そして、明治4年の壬申戸籍法の施行で全国で新たな戸籍が作られた。この時井月は戸籍が取得できなかった。長岡の親族が死に絶え、菩提寺が無くなっていたのだろう。そのため伊那谷で住まいとなる草庵を持つ事ができなかった。
 
行き暮れし越路やほだの遠明かり
立ちそこね帰り遅れて行くつばめ
雁がねに忘れぬ空や越の浦

 以後20年間、伊那谷の俳人や富裕な文人、造り酒屋などの間を泊まり歩いて、俳句の指導、揮毫などでわずかな謝礼を頼りに放浪をした。明治維新で世の中が激変して江戸時代のような文化的な雰囲気が崩れて、井月も次第に窮していったらしい。晩年は野宿をするようになったという。そして子供たちに石を投げられて追われることもあった。
しかし、穏やかで茫洋としていて、与えられるものだけで「千両、千両!」とお礼を言いいながら美しい伊那谷を放浪をしていた。

あぶなげな富を願わず紙衾     紙衾(紙の布団で中は藁)
虫まけもせぬを手柄か吾亦紅
湧水の音涼しきや松の陰
良き水に豆腐切り込む暑さかな
時めくや菜めし田楽山椒味噌



井月賛歌

いつのまにかはるか遠くにたどり着いて
背負い込んできた
哀しみや悔恨は
とうに苔むしている

みんな路傍に投げ捨てて
五月の茅花揺れるあぜ道を
軽やかに歩こう

青空に高く舞う雲雀
小川に光る小鮎
野辺に咲くスミレやタンポポ
明日知れぬ命は光り輝いている








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No.255  井上井月(3)

バス停のある風景
「バス停のある風景」 水彩 P15



 井上井月は越後長岡の出身であることは、本人も認めている。しかしそれ以上のことはほとんど語っていない。長岡藩士であったろうと推測されているが、長岡にも証拠は見つからないという。。武士ならば分限帳があり、菩提寺があれば墓があって過去帳や宗門改人別帳もあるはずである。
 井月句集にある略年府を読んでいてふとあることを思った。彼の生まれたのは1822年、江戸で学び諸国行脚をしていたのは1839年ごろである。そして伊那谷に入ってきたのが1868年で47歳あった。
 この時代の日本史を紐解いて付き合わせてみた。1853年:ペリー来航、1860年:桜田門外の変、1864年:蛤御門の変、1868年:戊辰戦争という激動期であった。
 最も関心を引いたのは井月が伊那谷に入ってきたのは1868年の戊辰戦争の年であったことだ。その中で最も激しい戦闘をしたのは北越戦争で、長岡藩と官軍の戦いであった。長岡藩の家老河井継之助の指揮下で官軍の先鋒と激戦をした。河井継之助は藩の兵制を改革し最新式の兵器を購入して官軍を迎え撃った。一時は官軍を圧倒したが多勢に無勢で長岡城を奪われて破れ、会津に敗走した。長岡の市街は灰燼に帰した。井月はこの年に伊那谷に入ってきたのだった。
 その数年前の1864年に井月が編纂した『家づと集』の序文を善光寺住職が書いている。そこには
「捨べきものは弓矢なりけり、という心に感じてや、越の井月入道の姿となり前年、我が草案を敲きてより、このかた鴈の頼りさえ聞きざりしに、、、、」
とある。つまり井月は戊辰戦争に先立つ幕末の動乱の中で出家して、仏門に入ったらしい。

親もちし人は目出度し墓祭り
妻持ちしことも有りしを着衣始(きそはじめ)
春を待つ娘心や手毬唄

 長岡に妻子があったのではなかったか?そして激しい戦闘で行方知れずになったのではないか。菩提寺も焼けてしまったのかも知れない。出家した留守に長岡藩も家族も戦争で滅びてしまったのを、生涯悔いていたのではなかったか。武士ならばなおさらだったろう。
 1872年(明治4年)に明治政府は矢継ぎ早に廃藩置県、新貨条例、壬申戸籍、解放令などの改革にを布令した。この壬申戸籍はこれまでの分限帳や人別帳、過去帳などを廃止して、全国一律の近代戸籍を目指すものであった。
この壬申戸籍の布令の翌年の明治4年に井月は伊那谷に草庵を営む機会があり、その資金を集めるための勧請文を書いて社中に回覧している。
 その中には
「自首待罪の心を表して今より古郷へ罷り越、送籍持参のその上からは草庵蝸蘆の再興をはかり、、、、」
と書かれている。その時に戸籍謄本を取るために越後に帰郷したが、それを果たせずに虚しく伊那谷に帰還している。それで自分の住まいが持てなかったのだ。
 自首待罪とは何を表しているのか。家族を捨て脱藩した罪なのか?あるいは新政府に咎められる何かがあったのか?この壬申戸籍令の施行が井月のその後の放浪生活の大きな原因になったらしい。

 その戊辰戦争に先立つ1847年善光寺大地震があり善光寺や松代は壊滅的な被害を受けた。善光寺の祭礼の日の夜で多くの人が家屋の下敷きになり火事で焼け死んだ。犀川が土砂崩れで堰き止めらけて、それが決壊して大水害になった。長岡も大被害を受けて多くの家屋が倒壊して水害もあったという。井月25歳の年である。そして47歳の時に北越戦争で市街は戦場になって壊滅した。
 そして井月没後の昭和20年7月には125機のB29の編隊によって激しい空襲を受けて、1時間40分で16万発もの焼夷弾が投下され、ほぼ全市街が焼け野原になったという。小都市としては異例の大爆撃であった。
 長岡は善光寺地震、北越戦争、太平洋戦争の空襲と3回も全滅に近い被害を受けていた。それが井月の足跡を辿るのを困難にしている所以だろう。
長岡にはそういう悲しい歴史があった。










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No.254 井上井月(2)

青梅の小公園
                  「青梅の小公園」 水彩 P15


『井月句集』福本一郎編 岩波文庫 が手元にある。
 それによると漂白の俳人井上井月は47歳の頃に信州の伊那谷に入り、その地で俳句を読みながら20年ほど放浪をして、明治20年(1887年)66歳で路傍に行き倒れて亡くなったという。晩年は次第に零落して『乞食井月』『しらみ井月』と子供達に石を投げられていたという。
 死後34年ほど経った1921年(大正10年)伊那出身の軍医下島勲氏が芥川龍之介の助力を得て『井月の句集』を発刊した。それを契機に同郷の伊那高等女学校教師の高津才次郎氏が、現地を訪ね歩いてさらに多くの俳句を収集し『漂泊俳人、井月全集』を出版した。それで、ようやく世に知られることになったという。そして、多くの人がその俳句に魅せられている。
 しかし井月の出自は今もよくわかっていない。彼はほとんど自分の過去を語ることはなかった。自筆の断片的な書付や俳句、関係者の書簡などから、彼が越後長岡出身だったというのは確からしい。そして驚くほどの学識と見事な書は、高い教養のある武士階級であったと推察されている。しかし、そんな恵まれた環境にあったであろう井月が、晩年になってどうして伊那谷を漂白するようになったのか、確かな証拠がほとんど残っていない。
その謎を解くには越後長岡という土地の特殊な事情が関係していると私は思っている。


あすしらぬ日和を二百十日かな        
朝寒や人の情けは我が命           





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No. 253 ロシアの船 

ロシアの船
               「ロシアの船」水彩F8



 この絵の裏を見ると1992年5月2日と書いてある。
一人で横浜の埠頭に船を描きに行った。人気のない埠頭の一角に赤錆だらけで異様な小型の貨物船が、一隻係留されていた。スクラップするための廃船かと思ったが甲板に人影があった。船尾に鮮やかな色の国旗らしきものが風に揺らいでいた。ロシアの三色旗だった。

 前年の1991年には共産国の盟主であったソビエト連邦が崩壊した。国内は大混乱になり内戦の様相を呈していた。経済が破綻して多くのロシア人は失業し苦境に喘いでいた。国家による計画経済から自由主義経済への大転換のための混乱であった。多くの国営工場が解体され、集団農場ソフフォーズ、コルホーズも解体された。そこで働いていた人たちには自営の自由が与えられた。しかし国営工場の労働者は上部から指示され命令された作業しかできなかったし、ソフフォーズ、コルホーズの農民たちはトラクターやコンバインなどは運転できても、肝心の農業をすっかり忘れてしまっていたという。混乱の中でソビエト時代の多くの兵器や工場が格安で外国資本に売却されていた。正式な国名すらも定まっていなかった。そして1992年の5月になってようやく国名がロシア連邦に確定した。新聞やテレビはそれを大きく取り上げていた。ちょうど其の時に私は横浜に船を描きに行ったのだった。錆びだらけでスクラップ船かと思ったボロ船には、真新しいロシアの三色旗が誇らしげにはためいていた。

 あれから27年、ロシアは見事に復活して世界の大国になった。忘れられない絵である。







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No.252  井上井月(1)

初夏の伊那谷
                 「初夏の伊那谷」 水彩F6



 若い頃から伊那谷はなぜか関わりが深い。兄が高校を出て会社に就職をして飯田出身の同期生と寮で一緒になった。彼は我が家にも何度か遊びに来たことがあり、ワンダーフォーゲル部の出身という。兄は彼に誘われて木曽駒ケ岳登山をした。帰って来てその素晴らしさを夢中で話していた。
 ちょうど5月ごろだった。私が入社して初めての出張先が飯田の子会社であった。新宿発の1日に一本しかない直通の急行に乗り遅れ、仕方なく鈍行を乗り継いで行った。今でも思い出すのが辛い。甲府を過ぎた頃から悔やんでも仕方がないと覚悟ができて、ようやく旅を楽しむ余裕ができた。
 車窓から見える伊那谷は花盛りで、左右の窓から南アルプスと中央アルプスの残雪の峰々が輝いていた。駅ごとに客が乗り降りして楽しそうな笑い声が聞こえ、車窓から手を振る人の姿も散見される。女学生も賑やかに話しながら乗り降りしていた。そんなのどかで美しい光景は今でも脳裏に焼き付いている。
 その後其の子会社に足繁く出張をするようになった。それから10年ほど経って山の絵を描くようになって、真っ先に出かけて来たのがこの伊那谷であった。何度足を運んだことか。
 お焼き、五平餅、オタグリ、りんご、馬刺し、ソースカツ丼と美味いものをたくさん知った。ある時、駒ヶ根駅前の「水車」という店に昼飯を食べに入った。そこに掲示してあったポスターや色紙で放浪の俳人井上井月のことを知った。ずいぶん前のことだ。
 その後、時折伝え聞いたいくつかの秀句を読むばかりであったが、どうしたことか最近は句集を数冊購入して折にふれて読むようになった。

稲妻や藻の下闇に魚の影

切れ味のすゞしき鎌や野の千草

明日知らぬ身の楽しみや花と酒

小流れに上る魚あり稲の花

如菩薩も花にうかれつ法の庭  (如菩薩:美しい女、法の庭:寺の庭)

朝顔の命は其の日その日かな

これらは、乞食同然の放浪をして野辺に行き倒れて亡くなった人の読んだ俳句とは思えない。私は井月の素直で純粋な感性に魅せられている。










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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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