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脇昌彦の水彩絵日記

折々に思い感じたことを記した絵日記

No. 243 芋づる式の記憶

麦萌える頃
「麦萌える頃」 水彩F6



 50年〜60年前は大昔である。当時の記憶は皆忘れている。しかし記憶というやつは不思議なもので、何かのきっかけで一つのことを思い出すと、その周辺のことが少しずつ思い出してくる。それをたぐっていくと、その奥の記憶が蘇ってくる。やがて芋づる式に次から次に思い出す。半年もそんなことをしていると驚くほどだ。
 記憶のそのありように気付いたのは、小説「座礁船」を書いた時だった。一つの記憶を反芻しているうちに65年もの大昔の記憶が生き生きと蘇る。そして、不思議に些細な取るに足らないことが多い。でもその些細なことこそが大切なのだ。大昔の記憶も人は決して忘れることはないらしい。
 サントリー・オールドをグラスに注ぐ映像とコクコクという音が響いて、「時は過ぎ去るものではない、積み重なるのだ」というTVコマーシャルがあった。それを聞いて、そうだ!記憶は忘れるのではなく体の中に年輪のように積み重なっているんだと気がついた。子供の頃の記憶は年輪の中心にあるのだろう。その記憶の年輪がその人の人生であり個性を形作っているらしい。だから、記憶喪失は大変なのだ。これは前にもこのブログに書いた記憶がある。
 昔の記憶を刺激して思い出すのは人生を豊かにする。たくさんの記憶を何度もなんども牛のように反芻して楽しもう。

 最近、その記憶を一生懸命に刺激してくれる人が電話をしてきた。県立千葉工業高校の機械科の同級の菅沢君である。
10年ほど前に彼は苦労に苦労を重ねて、同級生の足跡を訪ねて名簿を作り、手紙を出して電話をして、50年ぶりの同窓会を開いてくれた。その時に彼からの電話を受けて「俺だよ、同窓の菅沢だよ!」と言われて私はドギマギするばかりであった。同窓会の当日会場に入ると、まるで浦島太郎であった。しかし、記憶の芋づる式原理で帰る頃にはすっかり皆んなの顔を思い出して、愉快に飲んでいたものだった。
 私の家は内房線の大貫駅からすぐ近くだった。早朝6時15分発のC51の機関車に乗って千葉駅まで行き、そこから総武線に乗り換えて津田沼駅の学校に2時間かけて通った。私は機械科であったがもう一人電気科の須藤君が一緒だった。木のボックス席に二人で座って、毎朝一緒に宿題や予習をした。夏は窓を開けている。トンネルに入ると真っ黒な石炭の匂いのする煙がなだれ込んできて、慌てて窓を閉めた。その煙の匂いが蘇ってきた。千葉駅近くになると、通勤客で満員になり、入り口の手すりにぶら下がっている人が時折落ちてけが人が出た。
 一年の時の担任は数学の教師だった。試験の後に全員を集めてテスト結果の講評をした。
「落第点が5人いる。しっかりやらないとダメだ」
一人一人名前を呼ばれて担任の前に呼び出された。私もその一人だった。
「頭を前に出せ!」
と言われて拳骨でゴツンと打たれた。
 小学校や中学校ではテスト期間中にも、遊びに夢中で大した勉強もせずに過ごしていた。それでも成績は良かった。しかし高校ではそうは問屋がおろさなかった。拳骨のショックでその後は一生懸命に勉強をした。その担任のおかげであったと思う。
 これを書いていて、今もう一つ思い出したことがある。電気科か化学科の同窓の誰かとの話だ。その頃から現代詩を読み始めていたが、その関係で知り合った誰かだと思う。同人誌の話で誘われたような記憶があるけれど、それも定かではない。なんだか彼が詩を口ずさんでいたような記憶がある。「ひとひ、一日」というような? それっきりで彼とは無縁になった。卒業間近のことだったのか? それもすごくあやふやである。誰だったんだろう。
 その後大学の機械工学科に入学して、現代詩にのめり込んだ。文学部の女の子の宿題をやってあげたこともある。現代詩の解釈だった。
 同級生に私と同じように文学にのめり込んでいたK君がいた。彼からも二人で同人誌をやらないかと誘われた。迷ったけれど誘いに乗らなかった。単位不足で進級が危なくなっていたし、お金がなかったからだ。K君は大学の懸賞論文で大賞を受賞した。現代作家の作品評論だったような気がするが、あまり確かな記憶ではない。何度か喫茶店で文学論を交わしたことがあった。私が集めた現代詩の様々な初版本や評論集や詩集を数十冊も彼に貸したが結局それは一冊も帰ってこなかった。
 私は工業高校に行き大学の工学部を卒業して、そして就職したのは時計会社で生産技術や設計開発をしていた。その間いつも詩や文学に関心を抱き続けていた。思えば変な人生だった。
 こんなことを思い出したのも、千葉工業高校の同窓会幹事の菅沢君のおかげである。







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No.242 古河公方公園

古河公方公園の秋
「古河公方公園」水彩F6



 古河をよく知ったのは10年ほど前だった。古河総合公園という公園を視察したいという家内の希望があり、スケッチの下見を兼ねて車で訪れた時だった。それまではほとんど気にとめることはなかった。その公園は広くて自然な感じで美しい公園だった。2003年、ユネスコとギリシャが主催する「文化景観の保護と管理に関するメリナ・メルクーリ国際賞」を、日本で初めて受賞したという。
 メリナ・メルクーリと聞いて懐かしいメロディーを思い出した。高校生の頃に見た映画「日曜はダメよ」の主題歌だった。女優であった彼女はその後ギリシャの文化相になって国連にも関わっていたという。
 その公園の設計思想は素晴らしく、自然とその景観の美しさを重要視して設計されて、そこを訪れる市民との触れ合いも最大限自由に許されていた。茨城の小さな市の片隅にこんな素晴らしい公園があるのが驚きであった。
 ところが、驚きはそればかりではなかった。その公園の一角は古河公方の館跡とそれを取り囲む沼を取り込んで作られていた。
 足利幕府の関東支配のために鎌倉公方がおかれていて、それが戦乱の中で堀越公方と古河公方に分裂して長期間争っていた。その古河公方の館跡がこの公園にあったのだった。 
 それをきっかけに古河公方の歴史を知る事になった。なんとこの関東北東部から千葉一帯を4代に渡り100年近くも支配していたという。最後は後北条氏に飲み込まれて絶えてしまうが、豊臣秀吉がその遺族を喜連川氏として復活させて徳川時代を生き延びて現代まで続いているという。今は足利の姓を名乗っているらしい。
 その100年間は古河氏の居城古河城とその城下町は政治的にも文化的にも重要な都市であり、大いに賑わっていたという。古河あたりは地形的にもちょうど関東と奥州の結節点に位置しており、東南部は河川や湿地が入り組んだ地形で敵の侵入が難しい場所であり、さらに利根川、渡良瀬川、思川などがここで合流し物資運搬の要衝でもあった。そう考えれば、ここは地政学的にも要衝だったのだろう。
 どうも、私が学んでいた歴史が京都や大阪、あるいは戦国で名をなした北条や武田や徳川が中心で、この古河の歴史がきちんと書かれていなかったらしい。

 この11月になって木曜スケッチ会の下見に10年ぶりに古河市を訪れた。変わっていたのは、圏央道が全線開通して驚くほど早くなった事だった。そしてもう一つは公園の名前が古河公方公園に変わっていた。でも公園は昔と少しも変わらず自然で静かで美しい公園だった。その美しい公園の美しい紅葉を描いた。

 今回は時間があったので、古河城址の中にある歴史博物館を見学した。古河城址も綺麗に復元されてそこの歴史博物館は近代的な素敵な建物で、充実したレベルの高い展示がされていて、これも驚きだった。古河藩家老鷹見泉石が収集・記録した蘭学関係資料の展示が行われていた。幕末の国宝級の貴重な古地図が多く展示されていた。伊能忠敬、間宮林蔵、渡辺崋山などと親交していた。渡辺崋山が描いた肖像画が展示されてあり、国宝に指定されていた。見た記憶のある絵であった。
 さて、絵を描き歴史探索をして残すところはうまいもの探しだった。城下町と思しき一角にいかにも古い格式のある蔵造りの建物があった。ここで名物の鮒の甘露煮を買った。実は古河に来たほんとうの目的はこれだった。自宅に持ち帰ってあっという間に食べてしまった。



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No.241 落人部落

神戸岩の秋
「神戸岩の秋」 水彩 P15


 先日、私の主催する木曜スケッチ会の15名ほどで、秋川の檜原村にある神戸岩を描きに行った。五日市駅から秋川渓谷を遡上して檜原村役場を過ぎるとそこで秋川は北秋川と南秋川に分流する。北秋川を遡ってさらにその支流の神戸川の最奥部にこの神戸岩が屹立している。100mもの高さの屏風のような岩が見上げるようにそびえていて、真ん中が割れてそこが小さな滝になって水が流れている。一説にはその割れた様子を天の岩戸に見立てて神戸岩と名付けられたという。また、その奥は大岳神社の神域でその入り口だから神戸岩という名がつけられたという説もある。
 紅葉を描きに来たのだけれど、あいにくと紅葉はまだ色づき始めたばかりだった。それでもその巨大な岩と木々が美しい。
 この谷の部落は武田の落人部落だと言われている。私が勤めていた会社の同僚の奥さんがここの出身だったという話を思い出した。

 ずいぶん前のことだ。この檜原村の南秋川の大山奥に車を走らせていると、小さな集落で信号が一つ見つかった。その信号標識に「人里」と描いてあった。その下にローマ字で「HENNBORI」とある。
「へんぼり?」
私は思わず声に出した。もう一度よく見たけれど確かに「へんぼり」だった。面白い地名を見つける趣味があるので、信号の下のローマ字を必ず読む。すると中にはおや!という面白いものがある。しかしこれは断然飛び抜けている。パソコンで難読地名というのを検索すると、なんと上位にランクされていた。難読地名は東北や北海道の地名が多いが、アイヌの地名に当て字したものがほとんど。千葉の呼塚は「よばすか」という。アイヌ由来の地名だという。これは「よぶつか」だからまだわかる気がする。
 しかし「へんぼり」には降参する。いろいろな説があるがよくわからないらしい。いろいろと自己流で推測をする。最後の「り」は里だからいいとして、前の「へんぼ」はおおよそ想像がつかない。おこりんぼ、とうせんぼ、ひとりぼっち、だいだらぼっち、あまえんぼ、きかんぼ、と人に「ぼ」をつけて呼ぶ言葉をいろいろ考えつくけれど、どうもしっくりこない。変な人が住んでいたので「へんぼ」なんでは? と変なこじつけをする。どうも「ぼ」は坊主の「ぼう」が訛ったものらしい。
 調べてみると、蒙古語で人のことを「ふん」と言いそれが「へん」になったという人もいる。「ぼり」は新羅語だという。九州の地名では原と書いて「ばる」と読む。田原坂は有名だ。これは朝鮮語の町、集落という意味だという。その「ばる」が訛って「ぼり」になったという。それにしても前半と後半が違う言語由来というのも納得がいかない。
 しかし、ここにはもう一つとびきりの難読地名がある。笛吹である。これを「うずしき」という。これもすごい。知らなければほとんどお手上げだ。どう見ても「ふえふき」「ふえぶき」あるいは「てきすい」である。山梨には笛吹川、武蔵嵐山の笛吹峠、岩手の遠野の笛吹峠が知られている。それにしても、これをどうして「うずしき」というのか?これも謎である。

 昔のことだ。北秋川の山奥の樋里「ひざと」という小さな部落で絵を描いていると、古い藁吹きの民家の脇で畑仕事をしていた老人が声をかけて来た。色々と昔話を聞かせてくれた。老人はその家で育ったという。今は誰も住んでいない空き家で、月に一度ほど畑の草取りにやってくるだけだという。八王子で住み込みのビルの管理人をしているという。
 「俺の子供の頃は親父が鉄砲でイノシシ狩りをして、お袋はこの小さな畑を作っていた。その頃は杣道しかなくてな、親父は月に一度、馬の背にイノシシやクマの毛皮を積んで八王子まで一泊二日で売りに行った。貧乏で貧乏でよう〜!この部落はな武田の落人部落だ。俺の子供の頃まで肩身の狭え思いで暮らしてたんだよ」
としみじみと話した。そして、古い壊れそうな家の中を見せてくれた。薄暗い中には囲炉裏らしきものがあり、埃だらけの農機具や桶や布団が散乱していた。外の馬小屋も見せてもらった。両方ともはるか大昔に作ったものらしい。その時に初めてここが武田の落人部落だったことを知った。

 400年前に武田一族は織田信長の軍勢に攻められて滅亡した。武田勝頼一族は勝沼の天目山麓で自害して果てた。その勝沼から十畳たる山また山を越えて、東に100キロほどのところにこの秋川檜原村がある。武田の家臣たちはこの険しい山を越えてここに来て住み着いたのだろう。それは老人の話を聞くとつい昨日のことのように思えた。
この檜原村には他にも落人部落がある。 
源頼朝の挙兵に参戦した三浦一族の和田義盛は、その功績で鎌倉幕府の重臣であったが、北条義時の策謀にかかって滅ぼされた。その一族がこの檜原村に逃れて住み着いたという和田という部落もある。
 平安時代にやはり源連(みなもとのつらぬ)という貴族が政争に敗れて、ここに住み着いたという伝説も残っている。
北秋川と南秋川を隔てる浅間尾根にその由来を示す地名があるらしい。

この檜原村は面白いところである。


 




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No.240 食いしん坊の歴史研究会

砧公園の銀杏

「砧公園の銀杏」 水彩F6



 安曇野を描き始めた頃に、有明山麓の中房温泉郷の有明山荘に初めて訪れた。初夏だった。
中房渓谷沿いの険しい山道を登って行くと、芽吹き始めた山麓に白い山辛夷が点々と咲いている。窓を開けると渓流の瀬音と爽やかな山の空気がなだれ込んでくる。高度を上げると、時折樹間に真っ白なアルプスの峰が見えてくる。
 有明荘は一軒宿で、高い峰々に囲まれて静かに佇んでいた。宿の入り口にお湯が引かれていて、そこに竹ザルと生卵が積んであった。側に置かれた箱に代金を入れて卵を温泉に漬ける。1時間ほどたつと温泉卵になる。翌日宿を出るときはそれを4〜5個ポケットに入れて、途中で食べながら絵を描いた。数年して宿は改築されて綺麗になったが、温泉卵の施設は無くなった。

 その頃から安曇野に来るときは必ずここに泊まることになった。一年で最も綺麗な5月の田植え頃と7月の末がほとんどであった。勤務していた会社の囲碁仲間と来たこともあった。兄弟会を企画してここへ案内をした。絵の教室の生徒を連れてきた。総計すると十五回以上来ているかもしれない。
 この数年事情があってご無沙汰をしていたが、この10月24日に久しぶりにここを訪れた。古代史研究会の月例会で、勝沼の釈迦堂遺跡博物館、八ヶ岳山麓の尖石考古館、安曇野の有明神社を訪ねた。宿は懐かしいこの有明荘まで足を伸ばした。
 好天に恵まれて、遡行する中房渓谷は見事な紅葉であった。翌朝宿の周辺を散策すると、朝日にあたって燃え上がるような色とりどりの紅葉は息を飲むように美しい。思い返すと、秋の紅葉の季節にここへ来るのは初めてであった。

 八ヶ岳山麓の蕎麦屋で更級の十割蕎麦と馬刺しを賞味して、この宿でイワナの塩焼きを食べ、翌日下に降りて穂高神社の近くでおやきを食べて山葵漬けを買った。そして帰路に佐久に立ち寄って念願の「鯉料理」を食べた。鯉のアライ、鯉こく、鯉のうま煮である。
綺麗で、美味しくて、面白い歴史研究会であった。

 はて、何を研究したかって?  え〜と、何だったか。 あそうだ! もう一つ忘れていた。 尖石縄文考古館の近くで山帽子の身を食べたんだ! 真っ赤な小さな実はうす甘い不思議な味だった。

「縄文に食みしか赤い山帽子 金色の草燃える丘にて」   虚空







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No.239 食いしん坊の話

銀杏燃える
「銀杏燃える」 水彩 F8



 10月の半ばから奥多摩や秩父は紅葉が始まる。紅葉は段々下に降りてきて狭山丘陵は12月中旬にその最盛期を迎える。その美しい紅葉を描きに行こう。
 大昔のスケッチを始めた頃から弁当は必ず自分で作る。大概はおにぎり三つとお茶だ。おにぎりは母譲りの小さい俵型で周り中を海苔で包む。具はおかかと昆布の佃煮、梅干しである。
贅沢な時は佃島の「丸久」の小海老、あさりの佃煮である。これは美味い。
時々はサンドイッチとコーヒーにする。定番のサンドイッチは、目玉焼きにブルドッグソースをかけて二枚の食パンに挟んむだけ。これはあっという間に出来るのがみそ。朝ごはんを炊いたりおにぎりを作るのが面倒だったから、絵を始めた大昔は大方このサンドイッチだった。
 その昔は山奥や田舎に行くと食べ物が手に入らなかったから、必ずこのサンドイッチ弁当を持って出かけた。
 これは前にも書いたかもしれないが、ある日弁当を持たずにスケッチに出かけた。大田舎の山裾を描いていたけれど、腹が空いて我慢できなくなった。絵と道具をそのままそこに置いて、車で食べ物屋を探して回った。いくら走っても見つからない。諦めかかった頃に、ぽつんと小さな古びたトタン屋根の店を見つけた。暗い店内に少しばかりの食料品と雑貨などを売っている。薄暗いケースの中に菓子パンが数個置いてあった。ちょっと躊躇したけれど、アンパンを2個とバヤリースオレンジを買った。これで絵を続けられると、元の場所に戻ってそのアンパンを食べると変な味がする。慌てて吐き出して、よく見るとカビが生えていた。
 その後、津々浦々にまでコンビニができて便利になった。もっぱらそこで買ったおにぎりが定番になった。あとはタマゴサンドだった。しかし、何年もそれを続けて気づいたのだけれど、手作りのものに比較すると後味が悪い。結局、また今は振り出しに戻って、もっぱら手作りの弁当になった。

 スケッチに出かけると、めづらしい食べ物を探して買って帰る。野草を摘むこともある。それが野外スケッチの大きな楽しみになっている。木曜スケッチ会では帰りに道の駅や農産物直売処に立ち寄る。バスの中ではもっぱらその食材の賑やかなお料理講習会になる。
 春の都幾川の土手沿いでスケッチをしていた時だった。ある会員の方が両手いっぱいに赤い色をしたイタドリの新芽を抱えている。
「とってもいいイタドリが見つかったわ。これは美味しいのよ!」
と興奮をしていた。私はその時初めてイタドリを知ったのだった。翌月のスケッチの時にそのイタドリの塩漬けをいただいて、調理方法を詳しく教えてもらった。塩抜きをしてあぶらげと一緒にごま油で炒める。
 これは生まれて初めての体験だった。不思議な食感で実に美味しかった。以後春先にスケッチに出かけて見つけると採って帰る。どこの道端でもよく見かける雑草だ。

 表題の絵は11月初旬に秩父の三峰の近くの山あいの燃立つような紅葉の中で描いた。この絵を見ると美味しい栃餅を思い出す。
三峰駅を降りて少し歩いた外れにトタン屋根の古びたお店があって、そこに「栃餅あります」と書いてあった。そこで買って食べた栃餅の美味しかったこと。それ以後は秋に行くとか必ずそこに買いに立ちよった。絵を描く前に買うことにしていた。帰りだと売り切れになる。
 その三峰の栃餅も十五年以上ご無沙汰している。まだ変わらずあの店で栃餅を作っているのだろうか?
11月になったら買いに行ってみよう。







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プロフィール

脇 昌彦

Author:脇 昌彦
水彩画廊 suisaiga.jpを是非御覧ください。



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